影みたいなものでしたが、日がたつにつれて、だんだん本物になって来て、そのうちには、とうとうエピミーシウスとパンドーラの家が、ほかの子供達の家にくらべて何だか陰気になって来ました。
『一体あの箱は何処から来たんでしょう?』と、始終パンドーラは独りごとにも言い、またエピミーシウスにも訊《き》くのでした。『そしてまた、一体あの中には何がはいっているんでしょう?』
『いつもこの箱のことばかり言ってるんだねえ!』とエピミーシウスは、とうとう言いました。というのは、彼はもうこの話には、すっかりあきあきしていたからでした。『何かほかの話をしてほしいなあ、パンドーラ。さあ、熟した無花果《いちじゅく》でも取りに行って、木の下で夕飯にそれを食べようよ。そして、僕は誰もたべたことがないくらい甘くて、お汁のたっぷりある実《み》のなる葡萄の木も知ってるんだ。』
『いつも葡萄や無花果《いちじゅく》のことばかり言ってるわ!』と、パンドーラはすねたように叫びました。
『それじゃ、いいよ、』と、その時分のたいていの子供達と同じように、大変気立てのいい子だったエピミーシウスは言いました、『そとへ出て、お友達と面白く遊ぼうよ。』
『あたし、もう面白いことなんか厭きちゃった。そしてもしも、この上面白いことがちっともなくなってもかまわないわ!』と、だだっ児のパンドーラは答えました。『それにあたし、面白いことなんか、ちっともないんだもの。このいやな箱がいけないんだわ! あたしもう、しょっちゅうそのことばかり気にかかってるの。その中に何がはいってるか、どうしても聞きたいわ。』
『もう五十遍もくりかえして言った通り、僕知らないんだよ!』と、エピミーシウスも、少し腹を立てて答えました。『知らないのに、中に何があるか、言えるわけはないじゃないか?』
『あけたらいいでしょう、』パンドーラはエピミーシウスを横目で見ながら言いました。『そしたら、あたし達で見られるじゃないの。』
『パンドーラ、君はなんてことを考えてるんだ?』エピミーシウスは叫びました。
そして彼が、決して開けないということにして彼に預けられた箱をのぞいて見るなんて、如何にもおそろしいといったような顔をしたので、パンドーラも、もうこの上そんなことは言い出さない方がいいと思いました。しかし、それでもやはり、彼女はその箱のことを考えたり、言ったりせずにはいられませんでした。
『でも、それがどうしてここへ来たか位なことは言えるでしょう、』と彼女は言いました。
『ちょうど君が来る前に、大変にこにこした、利口そうな人が、それを戸口の傍に置いて行ったんだ、』とエピミーシウスは答えました、『それを置きながら、その人は何だか笑い出したくてたまらないといったような風だったぜ。その人はおかしな外套を着て、半分|羽毛《はね》で出来たような帽子をかぶってね、だからその帽子にはまるで翼が生えているように見えたよ。』
『その人はどんな杖を持っていて?』とパンドーラは尋ねました。
『ああ、とてもおかしな、見たこともないような杖だったねえ!』とエピミーシウスは叫びました。『二匹の蛇が杖に巻きついたようになっていて、その蛇があんまり本物みたいに彫《ほ》ってあるんで、僕はちょっと見た時、生きているのかと思ったよ。』
『あたしその人を知ってるわ、』とパンドーラは、考え込んだように言いました。『ほかにそんな杖を持ってる人はないんですもの。それはクイックシルヴァだわ。箱だけじゃなしに、あたしをここへ連れて来たのもその人よ。きっと彼はその箱をあたしにくれるつもりなのよ。そして多分、その中には、あたしの着る着物か、あんたとあたしとが持って遊ぶ玩具か、それとも二人でたべる何か大変おいしいものかがはいっているんだわ!』
『そうかも知れない、』エピミーシウスは横を向いて答えました。『しかし、クイックシルヴァが帰って来て、あけてもいいと言うまでは、僕達どちらにも、この箱の蓋をあける権利はないんだ。』
『なんて煮え切らない子だろう!』エピミーシウスが家を出て行く時、パンドーラはそうつぶやきました。『もう少し勇気があればいいのに!』
パンドーラが来てから、エピミーシウスが彼女を誘わないで出て行ったのは、これが初めてでした。彼は一人で無花果《いちじゅく》や葡萄をもぐか、それともパンドーラ以外の誰かと一しょに、何か面白い遊びをしようと思って出たのでした。彼はその箱のことを聞くのが、すっかりいやになってしまって、その使いに来た人の名は、クイックシルヴァだか何だか知らないが、その箱をパンドーラの目につかないような、誰かほかの子供の家の戸口に置いて行ってくれればよかったのにと心《しん》から思いました。パンドーラがその一つ事を、くどくどしく言っている根気のよさと来たら! 箱、箱、ただ箱のことばかりでした! まるでその箱に魔法がかかっていて、それがこの家にはあまり大きすぎて、それがあるとパンドーラが始終それにつまずき、エピミーシウスも同じようにそれにつまずいて、ころんでばかりいて、二人とも向脛《むこうずね》に生疵《なまきず》が絶えないとでもいったような気持がしました。
とにかく、エピミーシウスは、可哀そうに、朝から晩まで、箱のことばかり聞かされるなんて、本当につらい気がしました。殊に、そんな楽しい時代には、地上の子供達も、屈託《くったく》というものにまるで慣《な》れていなかったので、それをどうしていいか分らなかったのです。そんなわけで、その頃には、ちょっとした屈託でも、今日《こんにち》の大きな心配事と同じ位に人の心を乱したのでした。
エピミーシウスがいなくなったあとで、パンドーラはじっとその箱を見つめて立っていました。彼女はその箱のことを、百遍以上も、醜《みにく》いように言いました。しかし、さんざんけなしつけはしたものの、それはたしかに家具としては大変美事なもので、どんな部屋に置いても立派な装飾になったでしょう。それは黒ずんだ、ゆたかな木理《もくめ》がおもて一杯にひろがった、美しい木で出来ていました。そのおもてがまた、小さなパンドーラの顔が映って見えるほど、よく磨かれていました。彼女には、ほかに鏡とてはなかったのですから、このことだけからでも、彼女がこの箱を大切に思わないのは、おかしいわけでした。
その箱の縁《ふち》や角《かど》には、実に驚くべき腕前で彫物《ほりもの》がしてありました。ふちには、ぐるっと、美しい姿の男や女や、見たこともないような可愛らしい子供達があらわしてあって、それらが一面の花や葉の中に、凭《よ》りかかったり、遊んだりしているのでした。これらのいろんなものが、とてもよく出来ていて、しっくりとまとまっているので、花と葉と人とがつながり合って、複雑な美しさを持った一つの花環とも見えました。しかしパンドーラは、一二度、その刻《きざ》まれた葉のかげから、あまり美しくない顔だか何だか、いやなものが、ひょいひょいと覗いたような気がして、それがために、すべてほかのものの美しさが台なしになりました。しかし、なおよく見て、何か覗いたような気のした辺を指でさわって見ても、何もそんなものはありませんでした。本当は美しい、どの顔かが、横目でちらっと見ると、醜いように見えたのでしょうか。
顔のうちで一番美しいのは、蓋のまん中に、高浮彫《たかうきぼり》という彫り方で出来ている顔でした。蓋の板は、磨きをかけて、黒っぽい、なめらかな、ゆたかな美しさを出し、そのまん中に、額《ひたい》に花の冠を巻いたその顔があるだけで、ほかに細工はしてありませんでした。パンドーラはこの顔を幾度も幾度も眺めて、その口もとは、生きた口と同じように、笑おうと思えば笑えもし、真面目な顔つきになろうと思えば、またそうもなれそうな気がしました。実際、その顔つき全体が、大変いきいきとした、そしてどちらかといえば、いたずららしい表情をしていて、それがきっとその木彫《きぼり》の唇から、言葉になって飛び出して来そうに思われるくらいでした。
もしもその口が物を言ったとしたら、大抵、次のようなことででもあったでしょう。
『こわがるんじゃないよ、パンドーラ! この箱をあけたって何事があるものかね? あの可哀そうな、馬鹿正直のエピミーシウスのことなんか気にすることはないよ! お前さんはあの子より賢いし、十倍も勇気がおありだ。この箱をあけなさい、そして、何か大変きれいなものがありはしないか、見てごらん!』
僕はも少しで言うのを忘れてしまうところだったが、その箱は締《し》めてありました。錠前とか、何かほかのそういったようなものでなしに、金の紐を大変込み入った結《むす》び方にして留めてあったのです。この結び目には、終りもなければ、始めもないように見えました。大変むずかしくひねくり廻して、とても沢山の出入りがあって、それがどんな手先の器用な人でも、ほどけるならほどいて見よと、憎らしくも威張っているように思えるのですが、こんな結び目もないものでした。しかし、それをほどくのが大変むずかしそうなので、よけいにパンドーラはその結び目をしらべて、それがどんな風に出来ているか、ちょっと見たくなって来ました。彼女はもう、二三度はその箱の上にかがんで、その結び目を親指と人差指との間につまんで見たことはありましたが、それをいよいよほどいて見ようとまではしなかったのでした。
『あたし本当に、それがどんな風に出来ているか、分って来た気がするわ、』と彼女は一人で言いました。『いや、あたしはそれをほどいてから、また結び直すことさえ出来そうだわ。ほんとに、それ位なことをしたって、何でもありはしないわ。いくらエピミーシウスだって、それ位なことを怒りはしないでしょう。あたしその箱をあけなくともいいんですもの。そして、もしも結び目がほどけたにしても、あのお馬鹿さんにきかないで、開けたりなんぞしちゃ悪いわ。』
こんな風に始終この一つ事ばかりを考えなくともすむように、彼女にちょっとする仕事でもあるとか、何か考えることでもあるとかした方がよかったのでしょう。しかし、世の中に「わざわい」というものが出て来るまでは、子供達は大変気楽に暮らしていたので、ほんとにあまり暇がありすぎたのです。彼等だって、何時《いつ》も何時《いつ》も、花の咲いた灌木の中でかくれんぼをしたり、花環で目かくしをして鬼ごっこをしたり、そのほか地球がまだ新しかったその頃に、もう出来ていたいろんな遊びばかりもしていられませんでした。毎日遊んで暮らしていると、働くことが却って本当の遊びとなります。その頃には、まるですることはなんにもありませんでした。まあ、家の中をちょっと掃いたり、拭いたりする、それから新しい花を切る(それも至るところ、いやになってしまうほど沢山咲いているんです)、そしてそれを花瓶に生ける、――それでもう、可哀そうに、小さなパンドーラの一日の仕事はおしまいです。それからあとは、寝るまで、箱のことが気になるばかりでした。
しかしよく考えて見ると、この箱はまたこの箱なりに、彼女にとっての一つのめぐみでなかったと言い切るわけにも行かないと思います。それは彼女がいろいろと想像をめぐらして考える材料ともなり、また誰か聞いてくれる人がある時には、いつでも話の種ともなったでしょう! 彼女が機嫌のいい時には、その胴のぴかぴかとした艶《つや》や、まわりの美しい顔や葉を彫った立派な縁《ふち》などを見て感心することも出来ました。又、何かのはずみで気がむしゃくしゃした時には、それに一撃をくわせたり、小さな足でじゃけんに蹴飛ばしたりすることも出来ました。そしてこの箱は、幾度も幾度も足蹴《あしげ》にされたのでした(でも、あとで分る通り、この箱は悪い箱でしたから、そうして足蹴にされたりするのが当り前だったのです)。それにしても、もしこの箱がなかったら、何か始終考えていずにはいられない小さなパンドーラは、今みたいに、箱のことで思わず時間がたってしまうというわけにはとても行かず、退屈で困ったことでしょう。
というの
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