六怪選の勇ましくも物恐ろしい妖怪変化《ようかいへんげ》の絵や、三枚続きの武者絵に、乳母《うば》や女中に手を曳《ひ》かれた坊ちゃんの足は幾度もその前で動かなくなった。なかにも忘れられないのは古い錦絵《にしきえ》で、誰の筆か滝夜叉姫《たきやしゃひめ》の一枚絵。私が誕生日の祝い物に何が欲《ほ》しいと聞かれて、あれと答えたので散歩がてらに父に連れられて行った時「これは売物ではございません」とむずかしい顔の亭主《ていしゅ》が言ってから亭主を憎いと思うよりも一層姫の美しい姿絵が懐かしくなった。その他そこらには呉服屋、陶器《せともの》屋、葉茶屋、なぞがあったようだが私はそれらについて懐かしい何の思い出もない。坂下もまた絵双紙屋の側の熊野《くまの》神社、それと向い合った柳の木に軒燈の隠れた小さな煙草《たばこ》屋のほかはやはり記憶から消えてしまったけれどもその小さな煙草屋の玻璃棚が並べられて、わずかに板敷を残した店先に、私の幼《いとけな》かった姿が瞭然《はっきり》と佇《たたず》むのである。
私の生まれた黒門の内は、家も庭もじめじめ[#「じめじめ」に傍点]と暗かった。さる旗本の古屋敷で、往来から見ても
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