てゐるうちに自分の目の前には、その少年の年頃の自分自身の姿が浮んで來た。學課は怠けて運動場を馳※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、文學書以外には殆ど何も本は讀まず、一ヶ月の缺席數は出席數よりも遙かに多く、落第に落第の續いた時代である。自分には苦も無く目前の少年の心持になり切る事が出來た。けれども自分は夙《とつく》の昔臆病な大人になつてゐるので、相手の一本調子にうつかり相槌は打てないぞと、腹の中で、油斷のない狡猾な注意を忘れなかつた。
「けれどもね、矢張り學校は續けてやつた方がよござんすよ。」
 自分は學校では別段小説家に特に必要な智識を與へては呉れないにしても、學問の根柢があると此の世の中を知る上に深みを増すに違ひ無いなどゝ、もつともらしい顏付をして云つた。
 少年は「金色夜叉」を幾度も幾度も愛讀した事を話し、「蒲團」に感心した話をし、谷崎潤一郎氏の作品を好む事を話し、曾て友人と小遣を出しあつて雜誌を發行し、創作を發表した事を話した。その癖時々思ひ切つて愚劣な質問をして先生を困らせた。
「一體新聞小説家になる方がいいでせうか。」
 などと眞顏で訊きもした。
「それで滿足してゐ
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