耗して創作なんか出來なくなるに違ひ無い。第一流の作家の現在營んでゐる生活は極めて眞面目なもので、たとへその作品には遊蕩の巷を描いてばかり居る人も、必ずしもぬらくら遊んでゐるものではない。偉い作家に限つて到底想像もつかない程勉強家であるなどと繰返して云つた。さういふ時に、自分は一種くすぐつたい心持と、冷汗を覺えながらも、此の少年の素行に間違ひの起らない事ばかりを、主として自分自身を守る利己的な心持から念じてゐた。萬一彼が文藝即遊蕩ともいふべき興味から身を持ち崩されては、その母親や何かに對しても先生と呼ばれる立場として、申譯が無いと思ふいい子になりすまし度い心からであつた。
 自分は最初から此の少年に先生々々と呼ばれる事に迷惑を感じてゐたが、次第にその迷惑の度を高めて、一種の輕い不安が絶えず少年の出現と共に自分を襲ふやうになつて來た。
 たつた一人で散歩するのを好む自分は、馴れない大阪の市中を地圖を懷にして歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐたが、さうと知ると少年は、
「先生私が何處かに御案内しませうか。」
 と云ふのであつた。
 何處かに御案内するといふ言葉の意味を、自分は明瞭につかむ事が出來ないで、彼の心事を疑つたが、餘り勸めるので、
「それでは何處にでも連れて行つて呉れ給へ。」
 と同意する事になつた。
「サア何處というて私もよくは知りませんけれど、平生私達の行く處でよろしいですか。」
 と幾度も念を押した上で、彼は道頓堀の北河岸の西洋料理屋兼カフヱに自分を連れて行つた。
 平生自分が、大阪特有の安音樂の絶間なく奏されてゐる酒場《バア》を、口を極めて罵倒してゐるので、
「此處は靜でよろしい。」
 と案内者が自慢する通り、少し陰氣に思はれる程ひつそりした家だつた。
「今晩は、お久しうおまんな。」
 とお白粉《しろい》を塗つた給仕の女は少年を見て挨拶した。
「近頃は××は來ないか。」
「つい昨日も見えてでした。」
「△△は。」
 彼は一緒に此の家に集る友達の名前を云つて訊いた。
 餘り上等で無い料理を喰べながら、何か酒を飮むかと云ふと、
「強い酒でなければ醉はんからつまらん。」
 と答へて、先生は麥酒《ビール》を飮んでゐるのに、彼はアプサンを命じた。赤木桁平氏ではないけれども、此の少年を前にして自分は遊蕩文學撲滅論をしないでは安心してゐられない心持に惱まされた。
「勉強したまへ、勉強したまへ。」
 自分は彼の顏を見る度に、眞面目に學校に通つて、眞面目に勉強するのが小説家となるにしても、第一である事を説いた。丁度昔、自分が此の少年の年頃に人々に云ひ聞かされた通りに。
 春になつて、少年は無事に商業學校を卒業し、自分も大に安心した筈だつたが更に又新しい心配が何時の間にか頭を持上げて來てゐた。
「先生、私はどうしても續けて學校に通つて勉強せんとあかんと思ひます。」
 彼は眞劍になつていた。
「そりやァ學校は續ける方がいいさ。」
 自分は、あれ程學校を厭だ厭だと云つてゐた彼が、急に勉強心の出たのを不思議がりもせず、怠けて落第でもされては大變だと、ひどくびく/\してゐた後であるから、勉強し度いといふのに安心して一も二もなく贊成した。
「けれどもお母さんが許さんから。」
 少年は殘念さうな口吻で云つた。その殘念さうな口吻に氣が附くと、こいつはしまつたと、自分はとつさに思つたのである。
 母親は息子の卒業と同時に、直ぐにも亡き夫の殘した爲事に就かせようとし、親類も勿論同じ考へで、殊に少年が文士たらんとする志望を抱いてゐる事は、働くといふ事には必ず金錢の利得の伴ふものと思つてゐる人々の不安心の種であつた。
「金儲け金儲けばかり云うて、金なんぞ一文もいらんわ。」
 ぼんぼんはぼんぼんらしい事を云つて、身内の大人達を罵つた。
「しかし文學では喰つて行かれませんよ。」
 自分は又しても大事取りの大人の臆病風に誘はれて、少年の燃えさかる火の手を消さうとした。
「喰はれんかて構はん。」
 ぼんぼんは愈々ぼんぼんになつて語氣も烈しく云ひ放つた。
 その日以來先生は益々不安を感じ出した。中途で廢《よ》してもいゝと云つて學校通ひを嫌つた時は、學校の難有味を説いて勉強するやうに忠告したが、忽ち彼が熱烈に學校生活を續け度いと夢中になつて來たのを見て、今度は學校も大したものではない、衣食足りてこそ藝術の製作も完全なものが出來るが、喰ふために書く事になれば文學勞働程悲慘なものは無く、作品も必ず儲け爲事の目的と墮落するに違ひ無い、殷鑑遠からず誰も彼も、其處にも此處にも濫作家がゐるではないか、それよりも一層方面違ひの事で衣食して、且つ藝術の製作に努力した方がましであらうと、もつともらしく勸め始めた。それには幸ひ先生自身が、會社員としての俸給で衣食し、同時に
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