文學的創作に勉勵してゐる實例なので、繰返し繰返し納得させようと努めた。けれども實はうつかりした事を云つて、少年がその一家の者の意見に對抗して自己の希望を貫徹しようと夢中にでもなつた場合には、飛んだとばつちりを喰つて、その一家の人々と何等か面倒な交渉を惹き起しはしないか、それが第一に避け度かつたのだ。
「會社になんか行く位なら生きてる甲斐が無いわ。」
少年は甘やかされて育つた者に限る我儘な調子でつぶやいた。
けれども次に訪れて來た時は、彼は既にその亡父の爲事であつた或會社の社員にされてゐた。自分はそれを聞くと安心して云つた。
「お目出度う。勤人の生活も存外嫌では無いでせう。」
「イヤもう土臺つまりません。」
彼は言下に先生のちやらつぽこを拒けてしまつた。
會社で一緒に爲事をしてゐる大人の愚劣さを、少年は公事を憤る人の口ぶりで滅茶苦茶に嘲笑した。俸給の上つた話、諸會社の賞與の話、物の値段の話、たまに話題が變つたと思ふと、それは猥談に極まつてゐるといふのである。
先生も亦かゝる周圍の中に暮してゐるのであるが、しかも擦れつからしの態度をとつて、人々を心中馬鹿にしながら尚且つ平氣で交際《つきあ》つて行くのであつた。殊に先生は曾て少年の日に於ては目前の少年と同じく、藝術家の生活といふものを一種特別の高尚なものだと思ひ違へて憧《あこが》れた事もあつたが、つかず離れずの態度ではあるが何時《いつ》かしら其の仲間に入《はい》つて見ると、尊敬の的だつた藝術家といふものも、意外にも下劣卑賤な人間が多く、中には幇間《たいこもち》にも劣る連中を發見して忽ち愛想をつかしたのであつた。
「君が結構なものだと思つてゐる文士だつて、君が愚劣がる會社員と同じものですよ。」
自分は例によつて少年の浪漫主義に水をさした。
けれどもこれが必ずしも先生の臆病とばかりは云はれないのである。先生はほんとに自分の見聞の範圍内に於て、ほとほと文士といふものに愛想を盡かしてゐるのである。投書雜誌と交互になれ合つて、田舍の投書家に媚びる事を專門にする賣名專門の徒、黨同伐異を事とし、わけもわかりもしない癖に白痴脅《こけおどか》しの知つたかぶりで、一押二押三押で押の強味で横行してゐる輩、役人役者芝居者を取卷いて飮んでゐる連中、嫉妬深くて奸譎で、得手勝手で愚癡つぽく、數へれば數へる程面白くない卑賤民の仲間のかくいふ先生もその一人に過ぎないのであつた。
「文士なんて下等な人間が多ござんすぜ。」
と云ふ時は他人を罵倒すると同時に、そんな人間と交際を持つ自分自身をも嘲笑する意氣込みが、不知不識にあらはれてゐるのであつた。
何れにしても先生は、自分を先生々々と呼ぶ少年の前途を危ぶむとともに、その危なつかしい前途にかゝりあつては堪らないと思ふ念に惱まされる事が多かつた。
或時少年は、先生が先生と呼ばれないで濟むかはりに、終日貸金の利息を勘定したり、諸拂の傳票に盲目判を押したりする會社員の生活をしてゐる事務室へ電話を掛けて來て、相談事があるから今夜行きますと云つて來た。こいつは困つたと思つてゐると、果して困つた問題を持つて來た。
彼は度々繰返して愚痴を云つてゐた會社づとめの單調無味に堪へられなくなつて、如何しても學校に入《はい》る決心をしたが、それには何處の學校がいいだらうと云ふのである。
「お母さんも同意したのですか。」
「私がそれ程熱心なら爲方が無いから大阪の家をたたんで、私の卒業する迄東京に住むと云うてなはります。」
我儘者は凱歌を奏する態度で答へた。
彼は文學書生の常例にもれず、早稻田大學の文科に入學し度いと希望してゐるのであるが、彼處《あそこ》は風儀が惡いからいけないと身内の者に反對されたさうだ。何故彼が早稻田大學を擇んだかといふと、どんな雜誌を見ても執筆者の大多數はその學校の出身者で、數に於て到底他の學校出身の文士と比較にならない程有力であるから、將來自分が世に出るにも最も有利だらうと考へたのださうである。まことに恐るべきは頭數の勢力である。
「それでは慶應義塾がいいでせう。」
と先生は曾てその學校で落第した事などを思ひ出しながら云つた。
「あそこは金ばかりつかうてる怠け者の學校だからいかんと云うてます。」
「成程ね。」
先生は一言も無く參つてしまつて、感服する外に致し方がなかつた。
「それにあの學校からは餘り偉い文學者は出てゐませんだつしやろ。」
少年の舌は滑《なめらか》に動いた。
「さう云へばさうだね。」
あまりの事の激しさに、流石に先生も殘念に思つたが、然《さ》りとていくら考へてみても、一流として許せるのは小説家では久保田万太郎氏、美術評論家では澤木梢氏を數へるばかりで、遙に下つたお次には先生自身位なものであるから、聲を高くして反對する勇氣は無かつた
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