。たゞ負惜みもまぜて、平素自分の考へてゐる慶應義塾の特徴をぽつりぽつりと説いた。
「そりやァ便利な人間はあの學校からは出ないかもしれないが、そのかはり比較的素直な心持を持つているところがいいと思ふ。」
 と云ふのがその要旨であつた。
 少年は餘り感心もしない顏をして聞いて歸つたが、數日後に又やつて來た時は、前とは全く調子が變つて、愈々慶應義塾に入り度いから、甲種商業學校出の者でも入學出來るかどうかを確めて呉れと云つて來た。
 先生は又してもこれはしまつたと思ひながら、兎に角その學校に教鞭をとつてゐる友人にきいて見ようと約束した。
 考へてみると此前の時、少し慶應義塾をほめ過ぎたやうに思はれて後悔した。あれは少年が自分の母校を罵つたので、人情として些かせき込み過ぎたのと、もう一つは彼れが慶應に入るまいと思つて安心してゐたので、うつかり提灯を持つてしまつたのである。萬一彼が入學して、金ばかりつかう怠け者になられては、先生の立場として厄介だと考へると、どうしても甲種商業學校出身者には入學の資格を與へない方が合理的であるやうに思はれて來た。
 一週間後、友人から商業學校出では入學出來ないと囘答して來た時は、先生は大なる災厄を免れた氣持がして、平生の無精に似ず自ら少年の許へ電話を掛けてその旨を通じて、さうして始めて安心した。
 それから後しばらく、自分は會社の用事で地方へ旅行して歸つて來てからも、少年には成るべく會ひ度くないと思ひながら何時の間にか夏を迎へたのである。暑い暑い大阪の貧乏下宿の二階で汗を流して暮してゐると、豫て惱み勝だつた持病が堪へ難い容體になつて來た。それに船や車で旅をして來た事も、平素たしなむ酒の應報《むくい》もあつたのであらう、しまひには會社で机にむかつてゐるのが苦しくなつて來た程、病氣は加速度で進行した。たうとう我慢し切れなくなつて休暇を貰つて數日中に東京へ歸り、入院して治療を受けようと考へてゐた。
 ところへ、日曜の朝であつたが、家中の疊にさし込む強烈な夏の日光に、頭の先から足の尖《さき》迄汗を流して、いとど病氣の身をもてあましてゐると、突然少年がやつて來た。しかも彼は一人でなく、年配の婦人を伴つて來た。
「お母さんをつれて來ました。」
 と挨拶する迄も無く、一見して親子とわかる目鼻立の母親に面して、先生は愈々豫感してゐた迷惑な舞臺に身を置く事になつたのを感じた。
 雙方とも汗を拭き拭き挨拶を濟ますと、目の前の息子の先生の、意外にも若僧なのに驚いたと同時に安心したらしい母親は、そろそろ用件を語り出した。
 元來會社の爲事に熱心だつた父親の子に似ず、息子は商賣が嫌ひで學校時代には學校から歸つて[#「歸つて」は底本では「歸つと」]來ると、只今では會社から歸つて來ると、二階の自室に閉ぢ籠つて机に向つて本を讀むか書き物をしてゐる。
「こんな者に何が書けますものかとは存じますけれど。」
 と親らしい前置きをして、一體その息子の書く物によつて判斷すれば、將來文士として名を成す事が出來るか如何か先生の御意見を伺ひ度いといふのである。
「それは勉強次第でせう。」
 と先生は暑氣と病氣と、且は又迷惑な自分の地位に惱みながら責任のがれ專一に答へた。
「せめて新聞にでも出るやうな有名な人にでもなります事なら、當人の好きな事でもあり、爲方が無いとあきらめて、學校に通はせてもいいと思ひますが。」
 しつかりした口のきき方をする母親は、次第によつては曾て自分も其處で教育を受けた事のある東京に息子と共に家を構へて、その成業を待つてもいいといふのであつた。
 先生は事の餘りに大がかりなのに吃驚《びつくり》したと同時に、愈々自分の責任の重い事と迷惑の大きい事を痛感した。
「默つて會社に勤めて居りますれば、末始終《すゑしじゆう》は間違ひ無く相當な地位に上《のぼ》る事も出來ますのですが文學と申せば先づ風流な事でございますから。」
 第一學校に通はせるにしても月々多額の出費だし、將來存外成功したにしても、なかなかお金にはなるまいといふのが、親として最も危《あや》ぶむ理由に外ならなかつた。
「お母さんは又金々ばかり云うて、金なんかいくらあつたかてあかん。」
 息子は苛々した調子で、默つてゐる先生の態度を頼母しくなく思つたらしく、傍から横槍を入れた。
「けれども文學者だつて喰べなくては生きて行かれませんから、それは御心配になるのがもつともです。」
 と先生は母親に向つて調子を合せた。
「ごらんなさい、貴方樣もさうおつしやるではないか。」
 母親は勢に乘つて息子の不平を抑へつけてから、或る知人の子は東京帝國大學の哲學科を出て年三十にして未だ親の脛を噛つてゐる事、或る知人の息子は慶應義塾に通つてゐて月々莫大な金を費消してゐる事、それからそれと實例を擧げて、學問
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