早い大連の町には初秋の霧のかかる頃であつた。大通のアカシヤの並樹の下を、彼は街燈の灯に照らされながら町の方へ歩くのがおきまりだつた。
目的の無い散歩ではあつたが、毎日々々同じ道を歩くうちに彼が必ず立寄る處が出來た。それは或る町角の本屋である。
元來好き嫌ひの色彩の鮮明な梶原君は、いつたん惚れたとなると、その惚れた相手方を最上級に祭り上げなければ承知しない人間である。さうして彼には學校時代からお馴染の三田通りの福島屋といふ惚れ込んだ本屋があつて、東京に居る時は勿論、神戸にゐても大連にゐても、遙々注文して其の店から送つて貰ふ事になつてゐたから、大連の町角の本屋では別段買物をするのではなかつた。ただ女の人が呉服屋の窓の前に立てば目の色が變るやうに、彼は本屋の前に立つて胸の躍るのを覺える種類の人間だつたのである。
或晩彼は其の町角の本屋の店に入つて新刊の本を一巡見て居た時、泉鏡花先生の新作「日本橋」を他のがらくた本の間に見出した。彼は迂濶にも「日本橋」の出版の豫告を知らなかつたので、菊判帙入の美本を手に取上げる迄は、それが眞實《ほんと》に泉先生の新作であるかどうかを疑つた。其晩直ぐに福島
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