を蹴飛ばした勢ひで、一町ばかり次の町筋の角迄來たが、右に行かうか左に行かうかと考へた時、どうしてももう一度後に引返して恥を忍んでも「笈摺草紙」を買はなければならないと思ふ心持が強く起つた。暫時《しばらく》躊躇した後で、自分は思ひ切つて後に引返した。
古本屋のおやぢは依然として身動きもしないで煙草をふかして居たが、たつた五分か十分とはたたない間に「笈摺草紙」はもう賣れてしまつた。
自分は涙の出る程なさけない心持で、古本屋のおやぢと先刻の若僧を憎んだ。なんだかしらないが、彼《あ》の若僧が故意にけちをつけて、自分の買はうとする心持を碎き、その後でまんまとせしめてしまつたやうに思はれて爲方が無かつた。けれどもそれは恐らくは自分のひがみであらう。あんな奴がそれ程に「笈摺草紙」に焦れてゐるとは想像出來ないから。
未練らしく蓙の上の古雜誌を、もしやと思つて幾度も探してゐる自分を、古本屋のおやぢはさげすむやうに見た。
自分は其後泉先生及び永井荷風先生の作品の出てゐる古雜誌は一切云ひ値で買ふ事にしたが、他日、「笈摺草紙」を手に入れてから十年以上もたつてゐる今日に到つて、未だ彼の神田の夜店の古本屋
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