る事を忌々しく思ふ心止め難し。恐らくは小説なる二文字が嬉しからぬ聯想を予に與ふればならん。
 われ等この人と親しかりし者は皆憲ちやんと呼び馴れたり。憲ちやんは色白く唇|紅《あか》き美少年にして、予は曾てこの友の如く無邪氣に尊き子供心を長く失はざりし人を見たる事なく世にもめでたき人に思ひしが、明治四十五年の春慶應義塾理財科を卒業するに先だちて俄に病みてみまかりぬ。生前好んで尺八を弄びたるが、憲ちやん死去の事を聞きしその夜、我が家の裏手の竹藪をへだて、折柄寒き月明りに震へつつ、絶えせず消えずいとかすかに思ひも掛けぬ尺八の音の流るるを聞きて、われは我が心を失はんとしたり。
「途すがら」は五六年前九州に在る姉の許に赴きし時、人に誘はれて炭坑を見に行きし日の日記をもととして作りし純然たる小説なり。折しもその炭坑に火災ありて坑夫あまた地底に燒死したりし慘害の後なりしかば、臆病なる予の心は異常の恐怖に襲はれたりしは事實なれども、何ぞ予に尋ね行くべき美知代のあらんや、すべてはわが作りし物語のみ。その父の命によりて庭前に愛誦の書一切を燒き捨てたる少年俊雄をわれ自らなりと思ひし人ありしが誤れる事甚だし。さ
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