先生は然《さ》る波瀾に富んだ性行の人ではなく、世に平凡なる偉人と言はれし通り頗る常識の發達せる平凡なる人であつたと。併し足下よ言ふ勿れ、當時は吾國開闢以來の思想の動搖轉換期にして實に先生は其の先唱者にして又中心點なりしなり。其の言行や奇拔にして當時の人にしては奇想天外より落つるといふ樣なことばかりされた人である。
君の「先生」に對して詳密なる批評を下すといふことは又他日に讓るとしよう。茲では單に何等讀者に感興を起させない作は價値に乏しいものである、そして君の「先生」は正しく斯る種類のものであると云ふに止めて置き度い。
[#ここで字下げ終わり]
 此の一節は吉村忠雄氏又は次郎生が、最もいい氣持で書いたものらしく、陳腐な形容詞を澤山持ち出して、見當違ひの議論を吹掛けてゐるところは、近代の文章特に「先生」の鼓吹したやうな進んだ文章に馴れた若い者には、到底吹出さないでは讀めない程愛嬌に富んでゐる。自分は非常なる興味を以て讀んだ。若しも低級なる興味でも敢へて構はず、讀む者を面白がらせるのが文章の第一義だと吉村忠雄氏又は次郎生が考へてゐるならば、期せずして人を失笑せしめる氏の文章なども「炳乎日月の
前へ 次へ
全21ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング