ぎないので、實は存外自分の功利的文藝觀に滿足してゐるのである。かうして自分の立場を明かにして置いて、吉村忠雄氏又は次郎生は「先生」の一篇に對して批評を下した。
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恐らく余ばかりでなくああいふ書きなぐり物では天下の人皆さうであらう。先生は天下の人の認めて、以て偉人とする偉人である。さういふ人の平素の洒落《しやらく》な處を寫さう偉なる言行を寫さうとするならば、もつと讀者の興味をそそり深刻なる印象を頭に殘す樣なものでなけらねばなるまいと思ふ。彼の作は此點に於て先づ全然失敗して居るものではなからうか、即ち題材としての平素の言行の取り方が當を得て居ない。迅《はや》きこと風の如きものの後には動かざること巖の如きものを、靜なること林の如きものの後には波瀾幾千丈といつた風のものを配するとか、坦々でなく紆餘曲折端睨すべからざる中に偉人の俤を偲ぶといふ風にするのが眞に是れ偉人を偉人として遇し、讀者の興味を彌《いや》が上にも湧き立たせ、且つは後世の人々をして其俤を偲ばしむる眞の方法ではあるまいか、文筆の炳乎日月の如く後世を照らすとは實に此事を言つたものではなからうか。或は足下は言はん、
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