解する解せないを標準としてである――に接する機關に公表する場合のものをいふのである。余は斯うした場合の價値は其作品即ち小説なり隨筆なりが一般讀者の感興を惹くことの多少と、勸善懲惡的な誘導力の多少とに由《よ》り決するものと思考するものである。そして此點が文藝雜誌などにて發表する場合と違ふ事と思ふのである。君は之に關し如何樣な意見を持て居らるゝか御高見を伺ひ度い。余は後者に於ては其讀者が前者の夫《それ》とは違ふし、又後者其物の天職も前者とは違ふ。同じ「先生」でも後者にはあれでも宜いか知れぬが前者には不向なものと思ふ。單に不向な許りでなく第一物になつちや居ない。余は彼《あ》れを讀んで何等の感興を催さなかつた。
[#ここで字下げ終わり]
 これは吉村忠雄氏又は次郎生の文藝觀で、如何に大人といふものは頭腦《あたま》の惡いものであるかを證明してゐる。最初に「彼是議論を戰はす程の素養も持つてはおらぬ」と公言してはゐるものゝ、續いて自己の文藝觀を説いて相手方の意見を伺ひ度いと云つてゐるのは、即ち「彼是議論を戰はし」度いのであつて「素養も持つて居らぬ」といふのは單に自らを低くし得たりとする習慣的禮儀に過
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