と思ふけれど、そんな粗野な人間を「近親者」の中に見出す事は出來ない。或は吉村忠雄氏又は次郎生は住所を詐り、姓名をかくすのと同一筆法で「近親者」だなどと嘘をついてゐるのかとさへ疑はれる位、誰人の所業か推測さへも不可能である。兎に角自分は自分の近親者の中に、かういふ沒分曉漢《わからずや》の居ない事を希望する。
吉村忠雄氏又は次郎生は「あの子供が」と輕蔑した語調で繰返してゐるが、子供は常に大人よりも悧巧である。自分は自分よりも年長の者よりも年少の者に對する時の方が怖ろしい。若き時代は常に一種の脅迫的壓倒力を以て自分の後に迫つて來る。子供を馬鹿にする者は自分の耄碌に氣の附かない人間に違ひない。
詰問者は明かに「先生」に對して義憤を發してゐる。不幸にして自分は彼の一篇に對して自らその出來榮の勝れてゐないのを恥ぢてゐる。從つて彼の作品が「物になつちや居ない」と云はれても爲方が無いと覺悟してゐるが、しかし吉村忠雄氏又は次郎生の言ふやうな見當違ひの攻撃に對しては、甘んじて首肯する事は出來無い。
第一に吉村忠雄氏又は次郎生は、文藝の價値は「一般讀者の感興を惹くことの多少と勸善懲惡的な誘導力の多少と
前へ
次へ
全21ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水上 滝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング