りして居るのに気がついてくる、矢も楯もたまらないやうになつて、彼は男の心の逃亡を引つつかまへようとして、あべこべに男から引外《ひきはづ》され、縁はさう云ふときに屹度きれる。きれた縁のつながるときには、二人の親しさがもう一倍増してゐる。おなじやうな事件をくりかへして居るうちに、女は段段と男に引ずられて行くやうになり、男の方でも段段此女と離れることが出来ないやうにもなつて行く、長い月日のうちに、男が交際をして居る多くの客人《きやくじん》からも、怪しまれることのない、公然の間柄ともなり、秘密話《ないしよばなし》の一室にも、彼だけは遠慮をすることもいらないものとして、出入《しゆつにふ》を許されるやうにもなつた。男が誰と会つて、何を話合つて、どんなことを計劃して居るのであるか、聞くともなしに聞いて居た其場の模様から、彼は段段男の仕事《しごと》に興味をもつやうになつた。
「旦那、お気をつけなさいよ。ゝゝさんはうす気味のわるい人ねえ。一言《ひとこと》云つちや旦那の御機嫌をとつて居るんですもの。」
 こんなことを云つて、彼は目付役をつとめることを自分の役目だと思つて居るらしい処も見えた。いつかしら男の仕事のすべてに対して、彼はある程度の理解と意見とを蓄ヘて、事実の中核《ちゆうかく》に触れた注意を、男に云ひ出すことも屡あつた。
 いろんな処でいろんな女に出くはして、手を出して見たのも数は少くないが、どの女もどの女も、男にとつては座興のやうな気持でしかつきあへなかつた。大阪から来て新橋で名びろめしたみな子と云ふ女などは、大分に長い間相手となつては居たが、気立がおとなしいとか、偽《うそ》が少《す》くないとか、親切なとか、云はば普通の女の普通の取なしの外に何《なに》が男をひきつけるものがあつたであらうか。取出して云ふほどのことはもとよりなかつた。つまり女は女だけのことしか考へない。惚れた男に遇へば嬉しい。浮気をされれば泣く。面白さうに笑つて、男の心をたぐりよせて、明日と云ふことなしに眠つてしまふ。寝巻姿の女だけしか目に映らない。それがあや子になると、あそび半分真面目半分で語り続ける夜も多かつた。会ふ人も会ふ人も、男から見ればみんな自己本位からの利害の関係者である。相手が自己本位であると共に、松村彼自らも亦自己本位である。話の合間合間《あひまあひま》にすら、少しの油断も出来ない。杯盤の間に於ても暗闘と暗闘とがひつきりなしにつづく。彼はどんなときにでも彼自らの姿を見破られないやうに、慎み深い用意を忘れることが出来ない。こんな苦しい、緊張《はりき》つた、いらだたしい生活が、幾日も幾日もつづいたとき、男は唸くやうになつて、女の膝に身をなげかけた。心の友を求めることに気がつかず、こんな女づれを相手に僅かな慰安を捜求《さがしもと》めてあるく男の惨《みじ》めさは、此意味に於て哀れなものと云はなければならない。
 今夜も松村はやはり疲労困憊の人であつた。朝、白川と会つて十時に築地のゝゝ倶楽部で東洋演芸の重役と長時間の交渉を続け、昼飯もせずに二時頃までは陰忍と焦躁の為に神経を張りつめて居た。それから皮革会社創立の計画、夜は二座敷《ふたざしき》の客をつとめてやつと放たれた身体《からだ》となつたのである。帰らなければならぬ時間となつて居たのではあるが、口には帰ると云つても、さて立ち上らうともしなかつた。
「此頃は白川さんとはちよつともお遊びにならないんですね。」女は吸付けた煙管を男にすすめた。
「うむ、せはしいからねえ。」
「でも、あちらは貴方の一番のお友達ぢやありませんか。」
「さうさねえ。」
「あたしさう思ふわ、貴方はどんなことでもあたしにお話して下さるんですけど、あたしは女でせう。あたし本統に有り難いこつたとは思つてますけれど、あたしぢやだめよ、貴方の御相談相手にや、あたしなんか何にもならないんですもの。だから貴方は白川さんを御相談相手になすつた方がいいのよ。貴方おひとりで、何もかもなさらうたつて、それや無理よ。こんなにまあつかれて……。」
 女は今までにないしんみりした気分になつて来るのを感じた。其れは男の顔には艶がない。額に皺をよせてぢつと考へこむいつもの癖がきはだつて女の目をひく。
「去年の大病から、貴方は本統にならないんですわ、以前はそれほどでもなかつたんですが、このごろはぢきにつかれるのねえ。たいぎさうにふうふう云つていらつして、それでもお客の前へ出ると、すつかり度胸をすゑちやつていらつしやるの。あたしなんぞが、どう気をもんだからつてしかたがないと思つても、やつぱり気づかひになつてくるんです。」
 男は聞くともなしに、つい女の話につりこまれて一心になつて居たのであるが、思はず、
「ふ、ふん。」と冷かに少しく笑つた。
 女を嘲けるのでもなく、その云ふことが少しも彼の心を動かさなかつたと云ふのでもなく、男は只無意識であつたのであるが、女にはさうは思へなかつた。
「貴方、きいて居て下さるの。」
「きいてるよ。」
「今夜は無心を云つてるんぢやないことよ、真剣よ。」
「真剣だ。俺も真剣になつてきいてるよ。」
「ぢやなぜ鼻であしらつたりなんぞなさるんです。あたし本統に心配でならないから云ふのよ。」
 男は妙に気がめりこんでならなかつた。皮肉らしいことでも云つて空元気《からげんき》をつけてやらうと思つた。
「お前の心配は後藤さんのこつたらう。」
 かう云つて彼は口をすうすう云はせた。唇をまげて舌で吸ひこむのが彼のくせであつた。
「なんですつて。」
 女は自分の云つてることがちつとも先方《むかう》へ通らないもどかしさと、一年も前の古い後藤の名を云ひだされた邪慳さとで、無暗に心がいきりたつた。
「何を云つていらつしやるの。あたしがどうかしたと云ふんですか、何をしました。この頃になつて私が何をしました。さあ、おつしやい。ぜひおつしやつていただきませう。」
 男は今更らしく当惑した。女がひすてりつく[#「ひすてりつく」に傍点]にいきり立つてくると、殆ど押へかかへも出来なくなることは之れまでも度度見て居たことであるから、激しい発作《ほつさ》の来ないうちに何とか云つてなだめなきやならないと思つたが、女はほんの僅かな猶予をさへ惜むかのやうにじりじりと男につめよつた。
「貴方は強情つぱりねえ。全くやせ我慢が強いのねえ。貴方は……貴方はあたしの様なやくざ女を……。あたし、やくざ……。」
 彼はもう涙でものを言ふことが出来なかつた。男の膝に半身を投げかけて、声を出して泣きくづれた。
 松村は女のするやうに任せて、ぢつと動かずに居た。そして打ち顫ふ女の房房した後髪をしげしげと見まもつて居た。
「いかにも俺は寂しい。」彼はかう思つて心に深い省察を加へて見た。売出しの少壮実業家と云はれて、俺は今若木の枝が芽を吹くやうにめきめきと世の中に延びて行く。先輩と云つても目に立つほどの人もなく、金があるからと云つて、ただそれ丈である。買被ぶられて居る彼等の信用と地位とは、遠くで見て居てこそ、素晴らしい勢力で、傑さ加減は側《そば》へも寄りつけない程にも思はれるが、段段近寄つて見ると、どれもこれも評判倒れがして居る。学問もない、見識もない、自分の事業に関する経験や智能のない、大局の見えない彼等と比べて見ては、俺はたしかに独歩《どくほ》の出来る才人《さいじん》であるとも云ひ得られる。足を斯界《しかい》に投じてまだやつと五年にしかならないのに、世間は俺を一廉の働手にしてしまつた。俺は欝然としてもう一家をなした。あんまり早い昇進である。けれども俺は寂しい。一人ぽつちだ。世間は俺が黒幕の外で振りかざして居る旗印を目標《もくへう》として、そこには俺の本陣があるかの如く思違へて殺到《さつたう》する。俺の苦しみは死守する此第一防禦線の陣地から生れた。今日迄幸に防禦線は突破されずに戦つては来たものの、俺は疲れる。休まなければならない。即ち幕の内にはひる。誰も居ない。全く誰も居ない。俺がたつた一人ゐるきりだ。俺の寂しみはこの暗黒な幕の内から生れる。誰でもいい。幕の中へはひつて来てくれ。俺は時折かうは思ふものの、もしそれが敵からの諜者《まはしもの》であつて、親切らしく慰《なぐさめ》の詞をかけながら、何の守も、何の用意もない俺の本陣の本統の状況を見きはめて行つて、世間にそれをおつぴらに云ひ散らされたときは、俺の第一防禦線は一支《ひとささへ》もなく潰《つひ》える。俺は滅多に友達を呼びいれることすらも出来ない。
 彼は静に女の背《せな》に手をかけた。
「此女だけが俺の赤裸裸《せきらら》の友だ。何と云ふ情ないことであらう。」
 感覚を佯《いつは》ることに忸《な》れた此女の情熱のうちに、どれだけの真実が含まれて居るのであらうか。俺は知らない。ただ此女ならばまづ心がゆるせる。たつた一人の俺の陣地に忍びこんで来て、俺の疲《つかれ》と寂寥とに僅ばかりの慰安をでも与へてくれるのは此女だけである、俺は安心して此女の腕によりかかつて眠れる。甲冑の紐をゆるめて眠ることが出来る。
「おい。」彼は背を撫でながら女を呼びおこした。女は顔を上げた。涙のあとが目のまはりをほんのりとあかく見せてゐる。
「もう帰らうよ。」男はやさしくかう云つた。
「厭《いや》。」女の声には力がこもつて居た。
「あたし今夜は帰へらないことよ。」
「ぢや、どうする。」
「とまつて行くのよ。もしおうちの具合がわるいつてなら、あしたあたしお詑びに出ててよ。」
「子供見たやうなことを云つてる。馬鹿だなあ。」
「あたし今夜はどうしても、いや。ねえ、後生だから。」
 女は思ひ入つた調子でかう云つて、男の左の手を握つた。その手の甲から腕の関節にかけて、二寸程の細長い瘢痕《きずあと》のあるのをぢつと見つめた。
「ねえ旦那、これ、忘れやしないでせう。」
「お前が気がくるつたときのことだあね。」
「まさか。」女は寂しげに笑つた。
「ねえ、貴方、堪忍して下さいな。あたし何もこんなことをする積りぢやなかつたんだわ。丁度運わるく火箸があたしの手にさはつたんですもの。ひすてりい[#「ひすてりい」に傍点]になつて、無暗に貴方に食つてかかつて居たときでしたわねえ。けれどもあたし嬉しいわ。」
 女は全く貞淑な、むしろ純潔な、処女が示す哀憐の様子を作つて、
「此|瘢《きず》は貴方の一生の瘢よ。そしてあたしの一生の紀念《かたみ》だわ。此瘢を見るたんびに、貴方はあたしを思出して下さるでせう。あたしが風来者《ふうらいもの》になつちやつて、満洲あたりをうろつくやうになつても、ねえ、さうでせう。」
 男はつくづく女の心持を思ひやつた。女の魂がとろけて自分の頭の中へ流れこんで来るかの様に強い感激が思はれた。この女とは長い月日の間に、いろいろ複雑した感情の争を闘はした。随分数多くこの女の涙も見た。けれども今まのあたりに見るやうな、さはつたら何ものをでも燎爛《やきただら》さずには置くまいとする力の籠つた女の姿は初めてであつたのである。今まで覗いたこともなかつた人の世界の真実が、この淫《みだら》な女の涙の中からありありと男の心の眼に映つて来た。け高いと云はうか、神神しいと云はうか。この女の前には自分はいつも素裸になつて居ると思つて、何の隔心《かくしん》を置かなかつた積りであつたが、それはまだこの女の本統を見きはめた上からのことではなかつた。さうして見ると俺自身もこの女にだけはと思つて、一切の自己をさらけ出して居たと信じて居たことも、まだ本統のものではなかつたものらしい。長い記憶を辿るまでのことは無い、現在此席でも、俺は虚栄をはり痩せ我慢を通して居た。一人ぽつちの幕の中で、俺はこの女を引きいれて、限りない欝憂から逃れたいとあせつて居たときでも俺はある大切なもの、唯一なものを、まだ彼に慝《かく》して居たのではないか。そして彼にのみ彼の真実の一切を要求して居たのではなかつたか。俺は屡この女の放埒を看過《みのが》した。傍観者のやうな態度で、彼の狂態を冷かに眺めて居た。いきり立つやうなことはあつても、彼に向つたときは、多く冷静を
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