瘢痕
平出修

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)当《あて》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)此|瘢《きず》は

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(例)※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]《やと》つて
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 躍場が二つもある高い階段を軽くあがつて、十六ばかりの女給仕が社長室の扉をそつと叩いた。
「よろしい。」社長の松村初造はちよいと顔を蹙めたが、すぐ何気ない風になつて、給仕を呼入れた。
「あの、田代さんからお電話でございますが。」
「うむ。」
「只今からお伺ひいたしたいんでございますが……。」
「居ると云つたか。僕が、ここに。」松村はうるささうに中途で給仕の詞を遮つた。
「いいえ。あの……」給仕はおづおづしながら、
「何とも申しません。お待ち下さいと申しまして……。」
「ぢや。」松村は考へて、
「まだ会社へお出かけなりませんて、さう云うてね……。」終の詞をやや優しく云つたので、給仕はほつとして出て行かうとした。
「ああ、おい。」松村は給仕を呼びもどした。
「それからね、桑野が居つたら、ここへ来いつて云ふんだ。」
 彼は此一日に於てしなければならない仕事の順序を考へた。何より急ぐのは、長い間の経過をもつてゐて、近く三日前から急に差迫つて来たある埋立工事の事業資金調達仲介のことである。出資者は金を出す、事業経営者は二流担保ではあるが担保を出すことまでは極つたが、貸借は直接関係でしたくはない。それは金主と事業者との間に一面識もないからであるのと、も一つ複雑したいきさつが纏はつてゐるからである。もともとこの話は松村と同窓の友人である白川奨の口から始つたので、白川は此資金が産む果実をとつて、自己の担任せる訴訟事件示談金の財源にしようと企てた。彼は出資者たる戸畑を相手として進行して居た訴訟を示談によつて終結させたいと思つて戸畑側と熱心なる交渉を重ねた結果、戸畑は五万円迄の資金を白川が確実なりとし戸畑の腑にも落ちる方法によつて支出する。それによつて得た利益は白川の自由に処分せしむる代はりに白川が依頼されてある訴訟は取下げて示談にする。かう云ふ成行から引出し得べき資金の利用方法を白川は松村に相談し、松村は之を間接には自分の信托会社も関係のある埋立工事の事業資金に廻さうと計画し、経営者と金主との間に立つて、自分は一面借主となり一面貸主となつて、三面的紛糾を解決しようと試みた。徐々に話は進行して行つて、白川はたうとう戸畑を説き伏せて、五万円の現金を三日前に信托会社へ持つて来た。
「さあ松村さん、やうやく金は出来た。今日納めて貰はう。訴訟の相手方から資金を出させて、それで利益を生ませて、その金を示談金に向けるなんざあ、一寸ない形式だね。実に骨が折れたよ。こんな仕事は俺だから出来るんだと云つてもいいよ。俺はいつも至誠で行く。赤裸々だ。掛引なんどを用ひない。示談は相互の利益なんだからねえ。」
 しかし松村はおいそれとその金を受入れることが出来なかつた。白川が苦心談を聞いてゐるのさへ座に堪へない程であつた。と云ふのは代金の証書としては会社の手形で松村と、も一人奥田と云ふ松村の同僚の裏書が条件となつて居た。白川がそれを確めたとき松村は無造作に承知して居たのであるが、まだ奥田の承諾を得てなかつた。それに貸出の方なる事業者から徴すべき担保物の調査も届いて居ない。白川が必ず引出してくると云つて居ても、其云ふことを当《あて》にしていいかどうかといふ狐疑心と、人を見くびる彼の高慢心とが、茲まで話が急転して来ようとは思がけない処であつたからである。否思ひがけない処でないにしても、彼は十分なる位置に自分を置く――即ち先づ白川をして金を作らせる、其上に自分が働き出すことが自分の十分なる位置を占めることであると打算する勝手な考が、かなり彼の方針の上に活躍して居た。これは彼には常套手段で、時には無貴任な仕打であるとも見えるのである。
「今日すぐ取引をすると云ふのかい。」
 松村は白川にかう云つた。
「今日やつて貰はなくつちや。俺の方でも本人があるのだし、金の性質は君の知つてる通りの訳なんだからねえ。」
 これで数ヶ月の苦心が成就の果を結び、白川の肩の重荷が取り去られると思つて、外に何も蟠《わだかま》りのないことに安心して来たのであるから、妙に渋り勝な松村の詞を聞いてはあせり気味にならざるを得なかつたのである。
「君あ、まだ埋立工事を見ないんだらう。」松村は落着顔に話を転じた。
「まだ見ないんだ。見なくつても構はんぢやないか。」
「実はねえ。」松村は真面目になつて、声をひそめた。
「奥田にもまだ見せてないんだ。一遍見せてからでなくちや話がまづいからね。」
「それは困つた。そんな話ぢやないんぢやないか。」
「君の方があんまり急なんだ。君の方で出来たと云ふことが確になつてから、三四日は置いて貰ふつもりでゐたんだ。掛引上大変に損得があるんだからねえ。こんどの借主どもに対する方策としてもだ、さうせかれちや実際困らあね。」
 彼はかう云つて軽く笑つた。親しい友人に対するある情味が閃かぬでもなかつた。
 白川は仕方がないと思つた。
「ぢや、奥田さんに来て貰はう。金主の代人の人も一緒に来たんだから、少し待つて居てもらつて、現場を見て来ようぢやないか。」
 かうして三人が自動車を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]《やと》つて近い郊外へまで行つて、工事施行の場所を一巡して会社へ帰つたのがもう四時を余程過ぎた頃であつた。白川は奥田の進まぬらしい顔付を見て、多少の不安を思つて居た。
 それからの二日間は松村の手都合の為に白川は空待《からまち》をした。日歩は払ふと金主に約束して金主をも待たすことにした。此間に松村は借方即ち工事経営者を呼び寄せて担保や報酬の交渉をした。此方ももとより異論なくきまつた。ただ残つた問題は奥田の裏書である。奥田の意嚮を確めもしないで白川や戸畑に松村が承諾の意思を洩らしたことが奥田の反感を招いたらしい。事業は屹度成功する、貸金には担保がある。戸畑に対する責任は手形の振出人たる信托会社と裏書人たる松村個人とがある。奥田に迷惑をかけることは決してない。僅か五万ばかりの金で、この松村がどうなるものか。彼れ松村はかくの如く思つて、奥田の裏書の責任を軽視した。一言云へばすぐにも奥田は承知するであらうと高を括つて松村は、白川に調金を奔走させて居た。金は出来た、借手の方もきめた、いざとなると奥田の態度がはつきりしない。どこまでも厭だと云ひ切りもしないが快く裏書をしさうな様子もない。
 松村は給仕に支配人の桑野を呼びにやつた後で、ちよつきのかくしから用箋に書いた書付を取出して、一通り読みかへして見た。書斎の机の上で、今朝出掛に有合せの赤いんきで書いた覚書である。と人の来た気勢《けはひ》がしたので彼は首をあげて入口を見やつた。桑野が来たのである。それに、も一人桑野のあとからはひつて来たものは白川弁護士であつた。松村は白川の顔を見るとふつと「いやだ」と云ふ気が注した。
 彼と白川とが明治法律学校で学んだのは十年以前のことである。卒業後白川は弁護士を開業し、彼は松村家へ養子となり、養家の財産を資本にして二三の事業を経営した。相互信托株式会社も其一つである、二人は当初親しく往来して彼の事業の創始の際などは、白川はかなり立入つた相談にも与つたのである。追々彼の実業界に於ける声望が高くなり、交際範囲が広くなるにつれ、彼は多忙の身となつた。会同交歓するにも大方彼の事業に利害の関係ある人々と一緒であつた。二人の間の親しみは疎くすると云ふ考もなしに疎くなつた。精神的に心の合つたと云ふでも無し、趣味も性格も余り似通つて居ない、養家の資産を土台にして今多少の羽振がいいからつて利害の友の外に旧歓を思はない様な心意気が白川には面白くなかつた。用事がなければ行く、さもなければ忙しい彼に忙しい時間を割かす程の必要もないと思つて、多少の嫉妬と僻《ひが》みとを交へた感じで白川は疎々しくなることを望ましい事とは思はぬながら足は彼の門から遠ざかつた。あんなにいきばつ[#「いきばつ」に傍点]て居るが、一つ蹉躓が来れば利害の友はみんな背く。いつそそんな時がくれば面白からう。どんなに孤独を感じ、どんなに寂寥を覚えるだらう。その落目の場合に、俺は行く。行つて初めて俺の至誠を彼に滲み透らさせて見せる。白川はこんな残虐を想望することすらあつた。この様な仕向けが白川の処世の上に不利益であり、又松村の為にも残念なことであると云つて、白川の幼な友達で松村の腹心の使用人となつてる桑野は屡々白川と云合つた。初め桑野を松村へ近付かせたのも白川なのである。
「貴方はなぜ大将に近づいてくれないんです。結局の処は……。」桑野は溢れるやうな熱心を以て畳を叩くやうな手付をして云ふのである。
「結局の処は、損がないぢやありませんか。」
「それはさうさ。」白川は仕方なしにかう云ふものの、反感を抑へることは出来なかつた。
「けれどもねえ、いやだからねえ。おちやまいす[#「おちやまいす」に傍点]たれるやうに思はれるのも、いやだからねえ。松村君はえらくなつちまつて、俺なんぞ眼中に無いんだ。」
「さう思ふからいけない。学校時代の友達で一番親しくしてゐるのは貴方でせう。貴方が訪問したとき、いつだつて大将が悪い顔をしたことがありますか。そりや大将も悪い。本統に死身になつてくれる人を見つけようと云ふ気が無いんだから。しかし貴方だけですぜ、『君つ』と云つて来れる人は。『白川が来たよ』つて、大将は貴方の噂をして喜んでゐますよ。本統[#「本統」は底本では「本続」]ですよ。」
「それは俺も知つてるんだがね。」
「まあとにかくやつていらつしやい。悪いことは無いから。実際心細いんです。仕事は忙がしくなる、手は拡げる。しつかりした相談相手といつちや僕だけでせう。」
「それでも気がついて居るのかい。」
「そりやね。僕と二人つきりになると、打明話があるんです、あの位利口な人ですから、満更のほほんになつちやゐませんや。」
 こんなことが度々重なつたので、白川も我を折つて此度の相談をもちかけて行つた。
「私もねえ、かうして居れば、かなり贅沢にくらしては行けるがね。まだ仕事がし足りないんだ。片手業と云ふのもをかしいが、どうでせう、少し働いて見たいんです。何か貴方の仕事のうちで私でやれさうなものがあつたなら、分けてくれませんか。」ある時白川はこんなことを松村に云つたこともあつた。十分に打解けるつもりでゐてもこんな生真面目な話になると「君」とは云はないで「貴方」と云はなければならないのを白川は本意ないことに思つた。
「さうかい。君がさう云ふ希望があるんなら……。」松村はややしばし考へて居たが、
「東洋演芸などはどうかね。」
「あの八重洲町にある会社でせう。」
「さうさ、あそこに専務がいるんだ。僕は推選を頼まれてるんだけれど。」
「面白いですな。あれなら私に適任でせう。敢て自ら薦めてもいいと思ふんです。」
「まあ考へておこう。あすこも今社債問題で悩んで居るんだ。僕が……」
 話の中に電話の呼鈴がなつた。松村は起つて之と通話を済ませて、
「これがあの問題だ。もうすつかり出来たところを、あの川下のやつめ、ぶうぶう云ひ出しやがつて、之から一つ怒鳴りつけてやらう。」
 会ふことがしげしくなるにつれて二人の友情は蘇《よみがへ》つた。松村もだんだん白川を手近く引寄せたいと思ふ様になつた。
 白川の顔を見るなりふつと厭な気がした松村はすぐ気分をかへて笑を浮べた。けれども眼ざとい白川はこの刹那の変化を見のがしはしなかつた。しかし、それを憎む心もちにもなれないのみならず、むしろ松村の苦しげな内心の動揺に自らの胸の顫《ふる》へを覚えた。彼にはまだ痺《しび》れきらない真心が閃いて居ると思はれたからである。
「いや。」松村は軽く会釈
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