した。
「いや。」同じく鸚鵡返しの挨拶をして白川は桑野の勧める椅子に凭つた。
前に事務用卓子を置いてあるきりで、装飾とては一つもない十畳程の洋室には、三月の朝の日ざしが麗しく窓を通して、斜な光を投げて居た。
松村は真向の椅子に身を任せて、綺麗に刈つた口髭を撫でながら云出す詞の端を手繰つて居た。肌の濃かな、男にしてはにやけすぎる程色の白い彼の頬は、心もち紅をさしたかと思はれるやうな、うつすりといい感じの色がいつも漂《ただよ》つてゐた。ふつさりと柔かい髪の毛を真中からきれいに左右に分けて、細目のずぼんの縞のもうにんぐを行儀よく着こなし、すらりとした身体を鷹揚に運んで居る処は、寔に上品な紳士である、否さながらの貴公子である。然るに今日は全く彼はやつれて居た。引続いての多忙と、引続いての寝不足とが、彼の顔色を蒼ざめさせ、生際《はへぎは》のあたりにいくらかの雲脂《ふけ》さへ見える。美しい彼の頬にも荒《すさ》んだ色があらはれてゐた。
「丁度いいところだつた。僕はまた出てこなきやならんので、桑野君に。」
松村は目を桑野の方へやつて、卓子の上に展げてあつた覚書の紙をまさぐりながら、
「これを今朝書いて置いた。白川君が見えたら此点に就いて、君と相談して置いて貰はうと思つてね。」
と云つて彼はそれを白川に見てくれと云ふ風に少しく紙片を押しやつた。
白川は何を書いたものやら想像もつかなかつたので、
「なんですか。」
さう云つて紙の向きを自分の方に直して黙読した。
其大意は、甲なる戸畑と乙なる某との間に起りたる訴訟関係は当会社の何等の与り知る処でない。然るに此訴訟関係を解決する方法として当会社が約束手形の振出人となることは理義に合はない。当会社はどこまでも仲介者の位置に立ち保証的の貴任丈を負ふべきに由り、主債務者を他に求められたいと云ふのである。此外に約束手形の期限のことなども書添へてあつた。
白川は読み了つて之を桑野の方へ渡し、この覚書の意味がどこにあるのであらうかと云ふことを考へざるを得なかつた。しかし一言の下にこの理窟を打ち破つてしまつては彼は面目を失ふことの代りに話は手切れになつてしまふ虞《おそ》れを思つて見た。で白川はさぐりをいれるつもりでかう云つた。
「これによると、誰かが主たる債務者にならなけりやならんと云ふのですね。」
「うむ、どうもねえ、それが本統ぢやないかと思ふんだが……。」
「誰がなつたらいいのですか。」
「誰でもいいだらう。君の方の本人だつていいぢやないか。」
「さうですなあ。」白川はわざとよそよそしく云つて桑野の方を見ながら、
「君も知つてる通り、あの戸畑にそんなことが解らうはずがないんだ。どうもね、あんな解らない人間は滅多にありませんよ。何か一寸としたことでも話がかはると、『まあ考へて見ませう』つて、二日も三日もぢつと考へ込むんです。狸爺がなんぞ云つて、あいつがわざと解らない振りをするんだなんて云ふ人もあるがね、さうぢやないんだ。全く呑込みがわるいんだ。ここまで話が進行して来たのを、根本からひつくりかへすとすると……。」
「根本からぢやないんぢやないか。責任者はきまつてゐるんだから。」
「そこですよ。あいつは約手で振出が誰で、裏書が誰でと云ふ条件ならと云ふので承知したんです。それが変更することになると、全《まる》で違つた話になると云ふんです。それはきつとさう云ふに極つてゐるんです。」
「困つたおぢいさんだなあ。」
「それだから話が困《むつ》かしかつたんです。何でもこの行き方ですからなあ。」
二人は顔を合せて苦笑した。桑野はただ黙つて二人の云ふことを聞いて居た。白川が例の端的な気性で、ずんずん切込んで行つて、談話を議論にしてしまひやしないかと、危んで居ながらも口をさしいれる隙を見出さなかつた。松村は追々時間が経過して行くことをあせつた。十時には築地の某倶楽部に会見する約束がある。早く話を切上げてそこヘ出かけなければならない。詞の潤《うるほひ》も艶《つや》も工夫して居るのがもどかしくもなつた。
「とにかく、会社が仲裁人の位置に立つてのはおかしいぢやないか。」彼はずぼんのかくしのあたりへ無意味に手をやりながら、いくらか思切つて云つてのけると云ふ風を示してかう云つた。白川は我儘なことを云ふ男であると思つても、しかも今迄下手に出て居たのであつたが、かう云はれて見ると、一つ云ひこめてやらなければならないと云ふ気になつて来た。ふだんはおとなしい心の弱い性で居ながら、相手が嵩《かさ》にかかつて来るとなると、何ものも恐れないと云ふきかん気が此男の頭の中に燃えたつのである。
「さう貴方が云ふんなら、私の方でも一寸理窟が云つて見たくなるんだが……。」
白川は袂から手巾を取出して口のまはりを拭いた。
「一体私は貴方を苦しめに此相談を持つて来た積りではないんで、どうです俺の技倆はと云つて意張つても見たり、甘くやつてくれたと貴方から喜んで貰へると思つて、私はこの金を持つて来たんだ。」
云ひ切つたとき脈管内に湧きたつ血が頭にのぼつて行くのであらう。身うちがぞつとするやうに彼は感じた。
「しかしねえ、私は最初から事件の仲裁は貴方に頼まない。これ丈の資金があるが、何とか利殖の方法があるまいかつて君に相談したんでせう。その時私が只突然に五万円の資金があると云つた処で、君は信用しまい。それを説明する為に訴訟の関係を話した。つまり沿革を説明したんだね。君は此金を受けいれて、私に約束の報酬さへくれれば、その報酬で、私がなにをしようとも、一切自由なんだ、訴訟の解決に使はうが地所を買はうが、相場をしようが、私は貴方からかれこれ云はれる気遣はない積りなんですから……理窟を云へばまあかうだがね。」
白川がこの一転語を下したとき桑野はほつとした。白川は世馴れた口調に調子をかへて、さつきから、額に苦悶の影を漂はせながら相返答もせずに彼の議論を聞いて居た松村に
「それで結局私が聞きたいのは、君の本統の心持だ。いくら私が金主側を説破して来ても、貴方が本統にやる気がないのなら、これは駄目なことなんだ。これまでになつて此話が破れれば、私は金主に対して済まないことにもなるが、それはまだいいとして、私の本人に申訳が無いし、相手方の代理人の大草さんにも顔向けが出来なくなる。私は全く切腹道具なんです。しかし貴方を義理責にして自分だけは助かりたいとは思つて居ません。兎に角本統にやる気なんだか、どう云ふんだか、掛引のない処を云つて下さい。」
かう云つて白川は自分の本意でない方向へ話が外《そ》れて行つて、松村を正面から責めつけて行かねばならなくなつたことを、口惜しいことに思つた。
「それはやる。」
「本統ですね。」
「さうだ。本統だ。」
この時吐いた松村の呼吸は腹の底から出るやうに感じた。之が俺の本心である、どこまでもやると覚悟をしてしまへば、手形の形式はどうでもいい。もともとこの手形は外へ廻さず、取立には交換にもかけないと云ふ約束なんだから、会社の名誉が外から損はれる訳はない。奥田の裏書と云つても、もし俺が親身になつて、どうか頼むとさへ云へば、反感も除《と》れるであらうし、承諾を得ることも必ず出来得るんだ。白川をここまで誘《お》びきよせておいて、ついと引つ離してしまつては彼の立場は全然失はれるであらう。仮定の条件をも一度変更して来てくれと云つて白川に難題を背負《せお》はせることは残酷な仕打とも云へる。此残酷な仕打を避けて、白川に此上の難儀をかけまいとするには、俺が頭を奥田に下げさへすればいい、会社の面目の極めて小なる部分を犠牲にしてしまへばいい。
「赤誠を以つて事にあたればいいのだ。」
松村の衷心の声はかう云つて彼の決心を促した。けれども彼はまだ懸引から抜け切ることが出来なかつた。出来る丈け体裁よく、出来る丈け有利な方法が取り得られるならば、まづ其方法に出る。結局の方針は腹の底に押し沈めて置いて、白川をして十分の苦心と努力をつくさせる。赤誠はいつでも出せる。それを出すには、今はまだ時機でない。彼はたうとう頭を擡げかかつた彼の衷心の要求を無理から押へつけてしまつた。
「それでね、桑野君ともよく打合せをして置いて下さい。僕は約束があるんで。」
松村は腰を上げた。
「東洋演芸の件ですか。」と白川は問うた。
「うん、あいつが今日纏りさうになつて来たんだがね。何しろ悪いやつが中にはひつて居るものだから、困つちまふよ。」
「どうもねえ、柄の悪いやつを相手にすると、話が困《むつ》かしいものだからね。」
「ぢや君よろしく。桑野君、いいかい。」
「え。」桑野がかう云つたとき、彼の姿のいい後影が扉の口に動いて居た。
「どうも困るなあ。」白川は、姑くたつて、独言のやうに呟いた。桑野はどこまでも真面目である。
「なんでも無いことなんですがなあ。責任を負ふときまつてしまへば、形式なんぞはどうでもいいんです。」
「しかし松村君はあんまり勝手すぎるよ。この形式だつて、一一意味が通じてあるんぢやないか。」
「処が大将も思違をして居たらしいんです。昨夜になつて、僕を電話で呼んで、手形の形式はいいかつて云ふんでせう。お指図通りに話をして置きましたと答へておいたのですが。困つたことになりましたなあ。」
「私もね。よつぽどやり込めてしまはうと思つたんだが、さうすると折角の話がめちやめちやになるし……。だが本心をつきとめて置いたからまあいいや。又一談判やるんだねえ。」
「さうです。結局やつてしまはなくちやならんのですから。大将だつてよく解つて居るんですが。」
しかし考へて見ると、白川は慊《あきたら》なさを思はざるを得なかつた。自分のこれほどの熱心がまだ松村を動かすに足らないのであらうか。自分からいくら隔を除《と》つて向つて行つても、彼はやはり利害の友としか見てくれないのであらうか。さつき話をして居る間でも、自分と彼との地位が著しく懸けはなれて居て、自分は始から終まで圧迫され器械視されて居た様な気持がする。自分と彼とはそれほどに違はなければならない地位であらうか。彼から養家の財産をとり除いてしまへば、彼はむしろ自分の下位に立つべき人物ではあるまいか。彼に金の勢が添はつて居る計りに、自分からしてが、いくらか彼を上に見ると云ふ卑屈な心にもなり、彼からは大に低く見下ろすと云ふ高慢な心にもなるんだ。一度下手に出てしまへばどこまでも押し潰されてしまふ。潰されたままにたいした憤慨もせずに平伏してゐざりよる。これが男の面目の堪へ得る処であらうか。彼から見れば自分は何でもない。此儲話が成否何れにかきまりがつけば自分は又関係の無いものとなり、彼からは全く用のない人間として取扱はれるのであらう。さればと云つて今自分がどんな反抗的計画を企てたところで、彼を痛い目に合はすことも出来ず「白川を優遇しなければならなかつたんだ」と思ひ染《し》ませることも出来ない。小さい我を張通して断然彼の力を藉ると云ふ事のすべてを撤回してしまふか、或は何事も大呑込に呑込んでしらじらしく彼に喰ひ入つて行くか。自分にはこの二つの途しか行く処が無いのである。
「どうでもいいさ。結局。」白川は苛《いらだ》たしげにかう云つた。
「屹度やらせませう。ここは我慢のしどころですよ。さつき貴方が切込んだとき、大将の頭にぴゆつと来たやうでした。あれで腹の強い人ですから外見にはなかなか見せないが、余程苦しさうでしたよ。いや、時にね……。」
桑野は火鉢の前に手をかざして、背を丸くしながら、少し声を細めて、
「妙な相談を持ちかけられて、僕あ思案にあまつて居ることがあるんです。」
「なんだい。大将がか。」
「いいえ。大将ぢやないんです。若いのが……。」
「細君。」
「さうです。どうせ貴方の智慧を借りたいと思つて居ましたがね。」
「どうしたんだ。」
「いやね、あの……。まあ大将が少し考へればいいんですよ。いつだつて十二時前にや帰りやしないんですからな。」
「まだ遊ぶんかねえ。先日なんだぜ『もうつまらないから止めたよ。しかしなあ、段段こすくなつてくるわあね。人の
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