色をそつと盗むなんてことを考へるからなあ。』なぞ云つて居たつけ。」
「ところがさうぢや無いらしいんです。此頃は僕にも内所にして居るんですから、真相はよく分らないのです。若奥さんが独りで気をもんでゐるのです。」
「をかしいなあ。あの細君が妬《や》くつてことは。つい此程もうちの家内と話して居たんだ。『松村さんの奥さんこそは呑気なものだ』つて。何しろあの調子の人だらう。男が交際上から妾ができる位は当り前だと思つてるんぢやないか。それが実にをかしいなあ。」
「処が御本人はすつかり考へこんでしまつてね。『私も思案をきめておかなければならない。』とか何とか云つてるんですよ。」
「そいつあ、困つたなあ。誰が目から見ても容姿《きりやう》ぢやちよつと過ぎた良人だからなあ。細君の方で反抗したつてそれあ駄目だよ。」
「さうですつて、そこなんですよ。御本人あ、いろいろ煩悶していらつしやるつて訳なんです。あははは。」
桑野は笑つたあとで、すぐ真面目になつて、
「実際気の毒なんです。一昨日かう云ふ相談をかけられたのです。貴方も知つていらつしやるでせう、あや子と云ふ女。」
「一度だけだ。それも三年も前のことだ。まだつづいてるのかい。」
「僕ももう切れたこととばつかし思つて居たのでしたが、どうもさうで無いらしい。
と云ふのは一昨日の話です。どんな相談があるかと思つて行つて見ますと、若奥さんが僕を小蔭によんで、
『桑野さん。貴方に相談があるの。こればつかりは誰にも云はないことなのよ。それはねえ、うちの旦那のこつたがねえ、毎晩一時つて云はなきや帰らないでせう。いろいろ忙しいことがあるのですから仕方もないが、又例の病気にでもなると悪るいしするから、いつそのことあや子をお妾さんにしたらどうだらう。』
相談と云ふのはかう云つたことなんです。」
「そんな馬鹿なことが出来るものか。」
白川は桑野がこんなことを問題にして居るのをむしろ歯痒いことにも思つた。
「僕も無論さうは云つて置いたんだが、しかし若いのの考へでは、いつそさうもしたらばと云ふ気になつて居るらしいんですつて。」
「細君がかい。」
「さうです。あや子が直接話しこんださうなんですよ。私がおつきして居た方が旦那のおからだのおためでせうつてなことを云つて、甘く丸めつちまつたらしいのです。」
「世間知らずだからなあ。細君は誤解して居るんだな。妾にして置いて、それをお茶屋へ引つぱつてあるけるとでも思つてゐるんだらう。」
「だから困るんです。一人の女を囲つてしまつて、待合入りを止めるやうな大将ぢや無し、又待合入りは、今日実際必要なんですからなあ。」
「実業界の悪い風だ、それが、待合で無きやものの相談が出来ないやうになつてるんだからねえ。しかし、とにかくその間題は破壊しようぢやないか。」
「それや僕もさう思つて居ます。それはさうするとして、遊ぶつて云ふ問題です。」
「いい加減によせばいいになあ。男はよし、金はあるし、実際もてるんだから、無理も無いや。どうもねえ、三十歳前後の細君には一度は危機が来る。松村の細君も今その危機に臨んで居るんだから、ここで余程の注意がいるのだがねえ。」
「ああいつた無邪気な細君ですから、くよくよ思つて居るかと思ふと可哀相でしてねえ。」
「君が後見をするんだねえ、まづ。そこで細君の態度だ。容貌から云つても、智識から云つても、到底対抗は出来ないことは、きまつてゐる。対抗力の無いものが、対抗して行かうとしたつてどうせ勝ちつこは無い。私に云はせればまあかうだ。どこまでも下手に出るんだ。決してりんきらしい様子を見せないでね。そしていくら遅くなつてもかまはず、優しく侍《かしづ》くんだ。そして愛情を起させるやうに女の方からしむけて行けば、柔よく剛を制すの道理だからね。松村君だつて、義理もあり、憎い細君でも無いのだから、どうにか調子をとつて行くだらう、と私は思ふのだ。何しろ夫婦の間で或事の隔てがあると云ふことが一番の禁物なんだからねえ。」
「まあさうする外はありますまいね。さう云つて妾問題は破壊させませう。」
「無論だよ。一体あや子つてやつは、なかなかの腕ききだつてぢやないか。」
「大将もすかさない方だけれど、この間題だけは。」
「処でどうもをかしいよ、此話は。これは二人共謀だね、きつと。」
「かも知れません。」
「さうとすればいよいよもつて破壊だ。」
「本統に困つちまふ。」
桑野は一寸と頭を掻いて立ち上つた。下の事務室では、もう社員が出揃つたらしく、入りまじつたものの音が、二階の静かな室まで響を伝へて来た。
漸く客を送り出してぐつたりと床の間の前の脇息に肘をもたせて居た松村は、電話だと云ふのでまた疲れたからだを玄関傍の電話室へ運んだ。
取りちらされた杯盤はきれいに片付けられて、桐の胴丸の火鉢も巻煙草の吸殻がはさみ出されて、白い灰が美しく盛りなほされた。酒の香と女の息と、火のぬくもりとで蒸さる様であつた室の温気は、一旦障子をあけひろげた掃除のあとで、すつかり新らしい空気と入れかはつた。三月の夜深の風はまだ人の肌になじまぬいらいらしさがある。あや子は身うちがぞくぞくして来たので、火鉢を抱へるやうにして顔を火の上にかざした。そしてしよざいなささうに火箸で灰のまはりをかきまはして居た。小柄ではあるが、美しい女である。黒瞳勝な目元が顔の輪郭をはつきりさせて、頬から口へかけて男らしい肉のしまりがある。
「おやお前さんおひとり。」
女中頭のおさだが、ひよつこり障子をあけて顔を出した。
「姐さん、おはいんなさいな。」
「どうも……。」
入口にうぢうぢしてるおさだを見て、
「姐さん。おはいんなさいよ。」あや子はまた促した。
お定は中腰になつて、ゐざるやうにしてたうとう火鉢の傍まで来て、
「旦那は。」
「今、電話。」
「さう。お忙しいこつたわねえ。」
「ほんとよ。かうして毎晩のやうにお茶屋さんでせう。それで一時間ともゆつくりしていらつしやることが出来ないんだものね。」
「つまらないわねえ。なにもおかせぎなさらなけりやならんと云ふ方ぢやなし、全く因果だあねえ……。あら、ごめんなさい。」
「いやよ、姐さん。あたしが奥さんと云ふんぢやなし。」
「でもさうぢやないでせう。お前さんだけは別ものよ。」
「それはねえ。かうして長くおひいきになつてゐればねえ。もう四年になるんですもの。五月四日が始めての日なの。でね、今年は四年目の記念会を開くんですつて、なんでも旦那が呼んでいらつした芸者衆をすつかり集めちやつて……。あたしに白襟紋付を着ろとおつしやるの……。」
「なんだね、あやちやん。大分手ばなしだわ。」
「あら。」
二人はくづれるやうに笑つた。
「景気がいいぢやないか。」
松村は寒さうに肩をすぼめて入《はひ》つて来た、
「ねえ、旦那。姐さんに記念会のお話をしてた処なんですよ。」
「よせ、そんなつまらんことを。」
「つまらなかあないわね、姐さん。」
「ええ、まことにごちそうさま。」
お定はまぜつかへしを云ひながら、そそくさと出て行つた。松村は火鉢の前にしやがんで、貧乏ゆすりをして居た。
「みつともないことよ、およしなさい。」
女は男の膝をぐんとついた。男は思はず尻持をついた、そして何も云はずに一旦居ずまひを直したが、やがてころりと横になつて、肘を枕にした。
二人は静に、思ひ思ひのことを胸に浮べて居た。と、あや子は忘れて居たものを思ひだしたと云ふ風で、
「今のお電話は、どなた。」
「白川だ。」松村は答へるのもうるささうであつた。
「白川さん。どうなりました。あの話は。」
「うむ。」
「おきめなすつて。」
「…………。」
「まだなの。随分前からの事ぢやありませんか。」
「………‥。」
あんまり返辞がないので女は、男の傍へよつて顔を覗きこんだ、男はそつと目を閉ぢて、右の手を掌を上にむけて額にのせて居た。ねむつてるのではないらしい。
「旦那、旦那。」女は小声に、気遣はしげに呼んで見た。
「ちよいとおよつたらどう。」
「まあ、いい。」男はぱつちり目をあけると、女の顔があんまり近くさしよつてゐるので、むせかへるやうに感じられた。で、またそつと目を閉ぢた。
「旦那、どうかなすつて、お床《しき》をさう云ひませうか。」
「………‥。」
「姐さんを呼びませう。今夜はもうお帰りなさらない方がいいことよ。」
かう云つた女の様子は、女中を呼びさうなけはひがあるので、男はつと起上《おきあが》つた。
「よせと云つてるぢやないか。」声はややけはしかつた。
「さう、ぢやよしますわ。けどねえ、旦那、十一時すぎてよ。」
「うむ、帰らう。」
「おかへんなさるの。さつきのお約束は反古なのねえ。」
「なにを、下らんことを云つてるのだ。」
「下らないことぢやなくつてよ。あたしにすりや大事な、大事なことなんですもの。」
女は蓮葉にかう云つて、細い金の煙管をとりあげ、煙草をひねつて一服つけた。
この女には惚れたと云ふことは嘗てなかつた。いや惚れたことはあつたが、飽きの来ない恋はなかつた。十五の年から二十四になる足かけ九年の間には、買はれた男も買つた男も数少くはなかつたが、男の紋所なんぞをもち物に縫ひとらせて、朋輩の者や、ともすれば、客の座敷の前でぱつぱとのろけ散らしてる時には、彼にはもう新らしい男が択まれてあるのであつた。松村とも二度手が切れて三度目に結んだ縁が今の二人にまつはつて居るのである。もとより二人ともそぞろ心であつた。けれども男が花々しく花柳界へ出入して居る間は、女の方でも油断はなく附きそつて居なければならなかつた。二人の中がその社界《しま》ぢゆうにおつぴらになつて見ると、女は意地にも男の心を引きつけて置かなけりやならない。それで居て女はちよいちよい浮気をした。若い役者のなにがしと立てられた噂や、田舎出の若旦那を手玉にとつたと云ふ蔭口は、全く根も葉もない事ではないのであつた。それを男に責められると、彼はちつとも悪びれるところもなく、
「ええ、さうよ。でも貴方は別ものにして置くからいいでせう。」
女はいつも隠しだてをして押しきつてしまはうとはしないのであつた。こんな間柄になつて居るとまでは見破ることの出来ないお茶屋の女中や朋輩芸者は「あやちやんは利口ものだ」と云つて感心すると同時に「松村の旦那はちつとも御存じないのかしら」と云ふ様な目付で、男の顔を気の毒さうに見て居ることなどもあつた。男にはそれが一つの侮辱と思はれた。で、女によくかう云つた。
「俺の名前にかかるやうなことをしてくれちや困るぢやないか。」
男は殊更に鷹揚な態度を示して、かうは云ふものの、深い憤《いきどほり》を包むに苦しさうな顔付をすることが常であつた。一思《ひとおもひ》にこんなやくざ女を蹴とばしてしまはうといきりたつこともあつた。ただ四五年の間絶えず茶屋酒に親んで来て修業が大分《だいぶん》に積んで来た上の彼としては、野暮《やぼ》臭いことを云つて一一女の所行を数へ立てて、女房かなにかのやうに、色里の女を取扱ふことを潔しとしないやうに思つても居た。ときとすると、女が何事もあけすけに打明話をしてくれるのを、自分に対して隔意《かくい》がないからだとも考へ直して見て、そこに昔の大通《だいつう》のあつさりした遊振りを思合せて、聊かの満足を覚えることもあつた。で、女のふしだらが最も劇しく、最も露出《むきだし》に行はれてる間は、彼はぢつと虫を殺して之を眺めて居ることも出来た。「今に又帰つてくる。」彼は女が必ず自分の膝の前に手をさげて、堪忍して下さいと云つてくることを予期して、わざとなんにも知らない顔で、女のするがままに任せて居ることもあつた。それ故、このやうなときには、二人の間は却つて――それが心からの融和はなかつたとは云へ――睦しさうにも見えるのである。
やがて女が一人ぽちになる。寂しさをしみじみ感じてくる。ふつと自分の左右をふりかへつて見ると、男は、その美貌と、金と、程のよい扱ひぶりと、もともと浮気な気性からとで、若い奴《こ》に目をかけたり、腕のすぐれた年増芸者と張り合つた
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