した。
「いや。」同じく鸚鵡返しの挨拶をして白川は桑野の勧める椅子に凭つた。
 前に事務用卓子を置いてあるきりで、装飾とては一つもない十畳程の洋室には、三月の朝の日ざしが麗しく窓を通して、斜な光を投げて居た。
 松村は真向の椅子に身を任せて、綺麗に刈つた口髭を撫でながら云出す詞の端を手繰つて居た。肌の濃かな、男にしてはにやけすぎる程色の白い彼の頬は、心もち紅をさしたかと思はれるやうな、うつすりといい感じの色がいつも漂《ただよ》つてゐた。ふつさりと柔かい髪の毛を真中からきれいに左右に分けて、細目のずぼんの縞のもうにんぐを行儀よく着こなし、すらりとした身体を鷹揚に運んで居る処は、寔に上品な紳士である、否さながらの貴公子である。然るに今日は全く彼はやつれて居た。引続いての多忙と、引続いての寝不足とが、彼の顔色を蒼ざめさせ、生際《はへぎは》のあたりにいくらかの雲脂《ふけ》さへ見える。美しい彼の頬にも荒《すさ》んだ色があらはれてゐた。
「丁度いいところだつた。僕はまた出てこなきやならんので、桑野君に。」
 松村は目を桑野の方へやつて、卓子の上に展げてあつた覚書の紙をまさぐりながら、
「これを今朝
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