。大きな獣が鼻から息を吹いて居るやうにも聞き取れる。彼女は更にびつたりと体を寄せかけて、抱へる様に手を広げ胸を樹幹に押しつけた。体中の感情の全量が一時に呼び生かされた。もう此木は彼女にとつては唯の樅の木ではない。生命は勿論、血も肉も、人間がもつてゐる本能の慾望も、みんな併せ具へて居る生物であると云ふ様に情の交通を感じた。彼と彼女とはもう二つでない。二つのものが融合して一つの心にとけ合つた。幼馴染の老木であるからの親しみでなく、此の心が彼の心に流れ込んだ神会の懐《なつ》かしみである。彼女は狂へるものの様に彼女の胸を幾度も幾度も押しつけた。
 樅の木はなんにも動かない。彼はたゞ立つて居る。生きて居る。彼の女の四倍の長い生活を営んで来た。此先まだ幾倍の生命を将来に維持して行くことか。それは今生きてゐるあらゆる人間に聞いたつて、誰も前途を見届けるまで命をもつて居るものはない。
 ぢつとしてゐるうちに彼女の昂奮は少し静まつた。少し体を放して目新しげに梢を見上げた。木は何事の変化もなく、もとより痛苦や、不安の姿もなく、記憶し初めた三十年前からの壮大なる木振の儘、今は暗夜の空につつたつて居る。
「こ
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