のいい日には鳶が輪をかく。一日に一度や二度は誰だつて姿のいゝ此木の枝振りを仰ぎ見ないものはない。彼も此村に生れて此村に育つた。この木は彼の樹木に関する智識の第一印象であると云つてもいい。
 けれど樅はどこまでも樅であつた。樹木と人間とは全く生活の様式を異にして居る。彼女の生きて居ることと木の生きて居ることとに情の交感がある筈がない。彼女は只古い樅の木であると知つて居た。久しい親しみがあると云つても、樅の木であるとしか考へて居なかつた。否、木であると考へることにすら無智な彼女の感覚は動いて居なかつた。
 今彼は自然に此老木の下に立つた。そしてもの珍らしげに、根元から幹、幹から梢を、ずうと見上げて行つた。梢は高い。空はそれよりも高い。しかし高い梢は空に達するかと思はれるほどに高い。やがて彼は根元近く体をよせて、手で樹幹にさはつて見た。人の背丈ほどの高さまでは、樹の皮は研をかけたやうに滑かにつるつるして居る。そして今夜に限つて、幹が温味をもつて居る様にも覚える。それは彼女の指先が熱して居たからであつた。こんどは彼は耳を樹幹にあてた。梢にあたる風の音が入りまじつた雑音となつて彼の鼓膜に伝はつた
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