《からだ》の向方《むき》をも知らずに彼は歩み出した。後《あと》ずさりをして居るのかと見える程僅かづつ前に出た。夜は暗い。と、彼の鼻先に、巨大な真黒なものが彼を圧して立ちはだかつた。彼ははつとした。全身の毛孔が一時に寒けだつた。冷たい汗が背中に滲み出た。
 樅《もみ》の木である。此境内にたつた一本ある樅の木である。口碑から云へば百五十年以上の老木である。根元の洞《うつろ》に、毎年熊蜂が巣を作る。蜂退治だと云つて、多勢の腕白共が、棒切れをさしこんだり、砂を投げ込んだり、或は火をつけて焼かうとしたりする。蜂は又自らの生活の根城を死守して屡侵略者を刺した。かう云ふ戦が繰り返されてからも、もう何十年になることやら。木は亭々として四時の翠色を漲らして居る。
 真直に往来へ出るつもりなのが、彼はいつしか左にそれて樅の木の下へ来て居たのであつた。さうとはつきり解つてしまへば、一時の恐怖はなくなつた。
 およそ此村に住むもので、観音様の樅の木を知らないものがあるものか。叉此村に生れた子供でこの木の下に遊ばないものがあるものか。この木の上に鴉が啼いて夜が明ける。この木の上に鴉が舞つて日が此上でくれる。天気
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