大逆罪である。内は国民に対し、外は列国に対して、公明厳正に裁判を進行させねばならない。弁護人としては被告の弁護権を擁護するの重責があるとともに、又司法権が如何に正当に行用されるかを監視せねばならぬ。田村榛沢以下数名の弁護士は今|正《まさ》に其任に膺《あた》つた。俺をも其一人に加へて、弁護人全体の重みを添へたいと云ふ希望であつた。俺はそれが名誉であるとかどうとか云ふことを考へたならば、すぐよろしいと快諾すべきものであつた。
しかし俺は少し迷つた。大井馬城の国事犯とは違ふ。事《こと》皇室に対する不軌罪である。何れの側からも同情がない。そんな同情のない事件の弁護をやつて、流俗の思はくがどうなるであらう。俺はいつもの俺とは違つた考へに迷つた。気が進まないからつて断《ことわ》つてしまつた。折角《せつかく》きてくれた両人には心外であつた。俺は不満な顔をして帰つた両人を見送つて、聊か不安を感じたが、さて又考へて見ると、俺だからよく此依頼を拒絶し得たと云ふ誇りがすぐ湧いて来た。其後海城が官選されたと聞いたとき、やつはたうとう断り切れなかつた。僕よりは一枚役者が下だどほくそ笑みをしたこともあつた。けれども俺の良心は折折かう云つて俺をせめる。「汝は汝に与ふるに十分の報酬を以てしたならば、あの弁護は拒絶しなかつたのであらう」と。之には俺も苦しめられた。全くその通りだとも思つた。さうすると俺は、流俗の批判を恐れたものともなり、報酬の無いので拒絶したものともなる。人間道から云へば俺はあまり立派でない。
田村の奴は俺が内心こんな苦悩をもつてゐると知つてか知らずでか、とにかく、俺を意気地《いくぢ》なしにしてしまつた。首が一つしかないからお前はこはかつたんだらうとほざいた。口惜《くや》しいが為方《しかた》がない。俺は黙つてしまつた。
* * * *
つまらぬことを俺は思ひ出したものだ。こんなことはもう二年前のことだ。世間ではそんな事件があつたことさへ忘れてしまつてゐる。俺は年を老《と》つた。愚癡になつたんだ。昔の生物学者が云つたやうに、人間の身体から一種の気が立つて行く、其気が適当に発散しないで凝滞《ぎようたい》すると病気が出る。俺も気の発散が滞《とどこほ》つたのであらう。少しからつとした心持にならう。
俺がかう考へ込んで居るのに、今朝は又愛子の姿が見えない。雑
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