るまで待ち玉へ。」田村が甲高《かんだか》な声を尖《とが》らして居る。
「もう十時半でせう。昨日裁判長から九時にそろつて下さいと云はれたとき、海城さんは毎日八時半に弁護人は一同打揃つて居りますなどと、真面目に云つて入《い》らしつたぢやありませんか」と廷丁《ていてい》が理責《りぜめ》を云ふ。
「今朝用事が出来れば昨日《きのふ》の通りには行かんぢやないか。」
 田村はまじめに海城の来るのを待つてゐるんだと思ふと俺は可笑しかつた。海城のやつも俺流だ。あの先生はともすると俺よりもづぼらかもしれぬ。「八時半にはみんな揃つて居ます」などと云ひつぱなしにするあたりはあいつの一流だ。
 俺は給仕を呼んだ。「どうした。」と法廷の模様をきいた。あんまりに遅いので外の事件を先にして審理がひらけたと云ふことだ。それなら俺を急がすこともないではないかと給仕を叱つた。叱つた方が無理であるとはすぐ思ひついたが、取消をするのも面倒くさいからその儘にしておいた。
 幸徳《かうとく》某|外《ほか》二十幾名が不軌を計つたと伝へられ、やがてそれが検挙となつて裁判沙汰に行はれた。こんなにものものしい警戒も混雑も此裁判事件の公判が[#「公判が」は底本では「公判か」]開けて居るからである。田村は此事件の主任のやうなものであつた。国民は激昂《げきかう》して弁護人たる田村や金山にあてて、「逆徒の弁護をするなら首がないぞ」と云ふ様な投書をいくらもつきつけた。俺は新聞でその事を知つて居た。田村が俺と向ひ合つて腰をすゑて俺に一揖《いつしふ》したから、俺はからかつてやつた。
「おい、首があるかい。少し顔色が青いなあ。」すると田村が、
「さうです。首が二つ以上ある人間でなければ、こんな事件には関係出来ますまい。」と云つた。
 俺はぎよつとした。田村のやつどえらい皮肉を浴びせかけやがつた。ただこれ丈の問答では聞いて居た第三者には少しも分るまい。禅機を語つて居るやうでもあらう。けれども俺の胸には手ひどく響いた。
 事件の公判期日が極《きま》つた頃であつた。田村と榛沢《はんざは》とが俺のところへやつて来た。此両人は東京でも先づ信用名望のある弁護士だ。それが打ち揃つて来て、俺にも弁護人になつてくれいと云ふのであつた。俺が承知してくれれば、院長へ交渉して官選弁護の辞令を出させると云ふのであつた。つまり此事件は実に日本建国以来初めて起つた
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