して居ます。貴方が勞役に行く。それもいいでせう。貴方がそれほどに仰有《おつしや》るなら、私も強《しひ》て反對はしません。私はただ貴方の病氣を心配するんです。毎晩の樣に不眠症にかかつて、ねつけばすぐ盜汗《ねあせ》がすると云ふぢやありませんか。熱も折々出るさうだ。そんな體で勞役に行つたらどうなるかわからないぢやありませんか。そこで金錢でこの苦難が逃れられるものなら、何とか工夫をして見たい。その工夫が大した犠牲を拂はないでついたら、貴方の身體は私に任せてくれていいでせう。どうしても出來なかつたら、その時は貴方の考へ通りに私は默つて見てゐませう。」男は云ひ終つて立ち上つて、
「話はそれで一段落だ。」と云つた。それは女の心を轉じさすには恰好の調子の詞《ことば》であつた。

 翌日亨一は金策の爲東京へ出かけた。一二の同志は疑ひ深い目付をして此話を迎へたきりであつた。
「政府から出して貰つたらいいでせう。」と云はんばかりの顏色をして居る。買收云々のことがまだ彼等の念頭に一抹の疑圖を殘して居るのであつた。亨一は矢鱈《やたら》に激昂した。此の汚名は何《いづれ》の時にか雪《すゝ》がねばならぬと思つた。それ故目前の爭論を惹き起すまいとして耐忍の上にも耐忍をした此日の苦痛は、心骨にしみ徹るのであつた。大川にはもう云ひ出すことが出來ない程澤山世話になつて居つた。けれども今は此人より外に縋《すが》る處はないのであつた。自分には基督論《キリストろん》の腹稿がある。それを書き上げるから前貸をしてくれと頼んで見た。大川は前後の話をよく聞きとつた上に次の如く云つた。
「原稿を買へと云ふんなら、買ひもしようさ。けれどその金がすず子さんの勞役を救ふ目的に使用されると云ふのなら、僕は考へねばならんよ。君と僕との事だから僕は直言するが、なぜあの女を勞役にやらないのか。君があの女と關係を絶つべき絶好の機會が到來してるぢやないか。あの女が君の傍にある間は、とても平和が得られはしないよ。君が男子として此上もない汚名をきせられて居るのも、もとはといへばあいつの爲だ。君の半生の事業はあいつが蹂《ふ》みにじつて仕舞つた。此上君に惑亂と危險を與へるのもあの女だ。僕は君が此迷夢からさめない間は、之れまで以上の援助を與へることは出來ない。」
 亨一は千百の不滿があつても、温情ある此親友の忠言に言《ことば》を反らすことは出來なかつた。
「よく考へて見よう。」と云つた丈であとは何も云はなかつた。
 東京に一泊して悄然として亨一は、伊豆の侘住居《わびずまひ》に歸つた。すず子の顏を見ることさへ苦しいのであつた。すず子は略《ほぼ》事の結果を推想して居た。亨一の歸りを出迎へたとき、その推想が中《あた》つて居ることを了《さと》つた。そして亨一の心中を想ひやつて氣の毒に思ふ心のみが先に立つて居た。
「すず子さん。」歸つてから、挨拶の外は何も云はずに考へ込んで居た亨一は、女の名を呼んだ。極めて改まつた聲であつた。
「私は貴方にお詫びします。私は生意氣でした。金策の宛もないのに、無暗に意張つて、貴方の折角の決心を遮《さへぎ》つた。もう貴方の自由に任せませう。どうならうとも私は異議がありません。」
 すず子はやるせない思ひで之を聞いて居た。
「私の決心は一昨日《をととひ》とは變つて居りません。それよりかも一歩進めて考へました。私は貴方と別れます。今日限り別れます。」
「それはどう云ふ譯で。」
「譯なぞ聞いて下さいますな、後生《ごしやう》ですから。私はただ別れたいのです。貴方とかう云ふ間柄になつた初めのことを考へますと、やつぱり譯もなにもなかつたんですわねえ。だから別れるのにも譯はないことにしませう。」
「貴方と別れる位なら、私はこんな苦心をしやしないですよ。」
「さうです。それはようく私に分つて居ます。貴方がどれ丈け私を大切に思つて居て下さいますか、私はすつかり貴方の心を了解しつくして居ます。それでもまだ私から別れると云ふのですもの、貴方が譯をききたいと仰有《おつしや》るのは當り前の事なのです。ねえ、貴方。それは今はきかずにゐて下さい。それを申しますと、私は悲しくなりますし、覺悟も鈍《にぶ》ります。譯は自然とわかつて來ませうから、それまでどうぞねえ。」
「ぢや譯は聞きますまい。其代りすず子さん、私も以前の生活に戻ります。貴方の計畫。貴方と三阪と多田との計畫の中へ、私を加へて貰ひませう。」
 女は愕《おどろ》いた。なんと返事をして好いかも分らなくなつた。ただ男の顏を見つめた。
「私は男子として忍ぶことの出來ない汚名をきせられた。千秋の恨事とは正に此ことでせう。いつどうして、どこに之を雪《すゝ》ぐか、私には宛がない。ただ一つあるのは、貴方の計畫です。あれに加はつて、思ふ丈のことをすることです。」
 亨一が東京へ行つた一日一夜を通してすず子の考へたことは、之れとは全く反對の趣意であつた。すず子は自分の爲すべき目的と、自分の愛する亨一との并存《へいそん》がどうしても望み得られないと思つた。どれか一つを抛《なげう》たう。かうも考へた。それがとうとう決斷の出來ないのであつた。どれか一つを抛つことが出來なかつたら二つとも抛つてしまはう。こんどはその方をのみ考へた。そして自分が居なくなつた後の男の身の上を考へた。あの人は學者だ。あの人の行くべき道は今僅ながら拓《ひら》けて來た。私と云ふものが傍に居るから、友人も同志もあの人に離れて居るけれど、獨りになつてしまへば、誤解もとけ、嘲笑もきえる。あの人がもつて居る理性や聰明や智識も復活して來よう。平安閑適の一生があの人の今後に續くであらう。あの人は今私と一しよに殺すべき人でない。理想の人に實行を強ふべきものでない。私が一切を抛つて先づ此處を去る。これがあの人の爲には最も善良な方法である。けれども別れた後の自分はどうなるのであらう。幾ばくもない餘生ではあらうが、その間でも、寂しい、眞暗な時間がどれほど續くかはしれないが、自分は果してそれに堪へ得るであらうか。堪へ得ぬときはどうしよう。死ぬ。さうだそれより外はない。私は死んでもあの人は助かる。私はどうしてもあの人を助けなければならない。ここまで纒めてすず子はほつとした。亨一が歸つて來たら之に基いた相談をしようと決心をして居つた。しかし之を云ひ出すには餘程の注意がいると思つた。
 はしなく男の口からその機會が生れて來た。女は昂《たかぶ》つた男の言出しを手《た》ぐつて自分の本心を打明けようとも思つたが、それが果していいか惡いか一寸分らなくなつた。で、先づかう云つた。
「私は貴方とも計畫とも別れてしまふんです。」
 男は叱るやうに云つた。
「貴方まで私を疑つてる。貴方が計畫と別れる。馬鹿なことだ。誰が信ずるものか。」
「本當です。本當に私は抛擲《はうてき》しました。」
「ぢやどうなるんです。」
「私、勞役に行きます。それから逃亡します。」
「串戲《じようだん》はよして貰はう。私は本氣になつてるんだ。」
「決して串戲ではありません。私の最後の斷案です。私、本統に獨り身になつて、十七八の頃のやうな心になつて、初めつから考へ直して見たいと思ひます。貴方が戀しくつてたまらなくなれば又歸つて來るかもしれません。その辛抱が一日つづくか、三日つづくか。まあやらせて見て下さいな。私が居なくなつて、貴方のお心もどうなりますか、それも私は見たいと思ひます。」
「ぢや貴方は全く計畫を抛つたのですか。」
「ええ。爲方《しかた》がありません。私は貴方を助けなきやなりませんもの。これで私の心が分るでせう。之からまだ段々分つて來ます。さうしたら貴方は、かはいさうだと思つて下さるでせう。ねえ。」
 泣くのではない、泣くのではない。泣けば決心が鈍《にぶ》ると、女は一生懸命に堪《こら》へて居たが、こみ上げて來る悲痛の涙は、もう胸一杯になつて居た。女はそれをまぎらす爲に、ついと立つて縁端へ出た。
 目の下の百姓家からはいくすぢとなく煙があがつてゐる。山の裾から部落の森の間をうねうねして谷川が流れてゐる。そのこちらの方の岸にそつた街道の中程の一軒家から母親らしい女がつとあらはれて、大きく手招ぎをした。何かが鳴つて居ると云ふ姿であつた。その貌《かほ》の向いた方の少し先の畑で、子供が一人|踞《しやが》んで居たがやがて女の方へ走り出した。夕日はもう裏手の山へかくれて居た。向の山は頂が少しあかるいばかり、全體が黒ずんで來た。

 かうときめたことに向つては、わき目もふらず直進するのがすず子の持前であつた。殊に此度のことは一層急いで決行せねばならないのであつた。少しでも心にゆるみが來れば一切が跡もどりになるかもしれない。手まはりの小道具の始末をしてゐる間にも、折々弱い心が意識の閾《しきゐ》へあらはれて來るのであつた。それを押し殺してすず子はあくる日の朝までに、すつかり仕度をしてしまつた。手近に置くべきもの丈を入れた信玄袋《しんげんぶくろ》は自分で持つて行く。行李はあとから落着いた先へ送つて貰ふことにした。
「もうすつかりになりました。」長火鉢の前に坐つてすず子は獨語《ひとりごと》のやうに云つた。いかにもがつかりしたやうな風も見えた。
 亨一は昨夜《ゆうべ》からいらいらし通しで居た。深更《よふけ》になつてからも、容易にねむれなかつた。やつとうとうとしたと思つたころには、もう夜は明け放れて居た。起き上つては見たが何だか人心地がしない。身體中が輕くしびれるやうな感じもする。之《こ》れつきりで女を手放してしまつて、それからどうなることであらうと云ふことは、いくら考へても考へても判斷がつかない。たつた一つの希望は女の心の變化を待つことであつた。かうして居るうちにも、女は東京へ行くことをもうよしてしまひましたと云ふであらうとも思つた。もしさう云つて身を投げ伏せて來たら、兩手で緊《しつ》かり女を抱いてやらうとも思つた。女はとうとう仕度をしてしまつた。待つた詞《ことば》が女の口からもれさうにもない。かうなる以上は自分から進んで引き止めなければ、女は此儘行つてしまふことは確である。此確な未來が亨一の目の前に來てぴたりと止まつた。亨一はそれを拂ひのける勇氣もなくなつて居た。
「私、一寸|母屋《おもや》へ挨拶に行つて來ますわ。」
 と女が立つたとき、
「あつ」と男は呼んだ。
「何か御用。」女は男の方へよらうとした。
「跡でいい。」男は投げるやうに云つて、ごろりと横になつた。
 下の普請小屋《ふしんごや》から木を叩くやうな音が二三度つづいて聞えて來て、またやんだ。空はどうやら曇つてるらしい。
 やがて女は歸つて來た。跡からお上《かみ》さんもついて來た。
「奥樣がお歸りになつたら、旦那樣はおさびしいでせうになあ。」とお上さんは縁端に腰をかけ乍ら云つた。
「どうぞねえ。お上さんお願ひしますよ。私も病氣の工合さへよければ、すぐもどつてきますからね。」
「え、え、私でできますことはなんでもしますから。」とお上さんはきさくに云つて、
「それでは車を呼んで來ませう。」と草履《ざうり》をぱたぱたさせて出て行つた。
「貴方、彌々《いよ/\》お別れですわ。」と女はしみじみした調子で云つた。
「……。」男は答が喉につかへて出ないのであつた。そしてまじまじと女の樣子を見つめて、その冷靜な態度に比して自分の見苦しさを恥かしいと思つた。
「御無理をなさらないやうにねえ。」女はまだものを云ふ事が出來た。
「私よりも貴方の事だ。生は尊《たつと》いものですよ。」
 亨一はやつとこれ丈を云つた。
「有難うございます。私は私で精進しますから。」
「私は今は、云ふ事が澤山ありすぎて、却《かへ》つて云はれません。何れ手紙で云ひます。あとからすぐ。」
「いいえ、いけません。手紙はよこして下さいませんやうに願ひます、」
「それはあんまり冷酷でせう。」
「決して、そんな譯ではないのです。私、貴方の手紙を見たら、その手紙でまた氣が狂ひます。此上私は苦悶を重ねたくはないのですから。」
「さうですか。ぢや手紙も書きますまい。」男は此|詞《ことば》の
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