をつけた。女の頭の傍に擴げたままの手帳が一册はふられてあるのが目に入つた。亨一は手をのばしてそれを取り上げた。
「犠牲は最高の道徳でない。けれども犠牲は最美の行爲である。」女は書き出しにかう書いてゐる。
「死は人間の解體である。破壞は社會の解體である。死そのものは誰か罪惡であると云はうぞ。それと同じく破壞そのものは亦決して罪惡ではない。死は自然に來たる故に人は免れ難いものだと云ふ。然らば破壞が自然に來たときは、やはり免れ難い運命だと云ふべきであらう。破壞が自然に來る。自然に來る。破壞を企てる人間の行爲は即ち自然の力である。我は自然の力の一部ではあるまいか。」こんなことが、極めて斷片的に書きつづけられてある。殊に最後の一節は、亨一のと胸をついた。
「私共の赤ん坊はよくねかせてある。誰も知らない、日もささない、風もあたらない、あの鴉《からす》共の目もとどかない處に、泣いたら泣き聲が大きかつたさうだ。」
 亨一は明りを消して床の上に横たはつた。女はまだあの戰慄すべきことを計畫してゐるんだ。女に心の平和を與へて、ふつくりした情緒に生きることを訓練しようと思つて、この三月《みつき》が間いろいろ苦心をして來たが、それが何程の效果もないらしい。女はやはり恐怖、自棄、反抗の氣分から脱け出すことが出來ないのだ。かう思つて來ると亨一は今更自分の過去の罪惡を考へずに居られなかつた。
 自分はかう云ふ暴逆的×××主義を宣傳する積《つもり》ではないのであつた。自分が云つた改革は、訓練と教育の力を待つて、自然に起こる變化の道程を示すと云ふことであつた。自分が呪つた權力は現在の政治が有つてゐるそれでは勿論ない。理想の上の妨害物たる權力そのものを指すのであつた。自由の絶對性を考ふるとき、一切の拘束力を無視しなければならないと云ふときの意味であつた。それを多くの者は混同させてしまつた。理想を云はずに現實を見た。今の政治が自由を奪ふと見た。同志と稱する者がかう云ふ間違つた見方をした丈《だけ》であるならまだよかつたが、政治家の多數が亦觀察を誤つた。そして謬見《びうけん》を抱いて社會の繼子《まゝこ》となつた人々に對して、謬見を抱いた政治が施された。脅迫觀念は刻々時々に繼子共の上を襲つた。その襲はれた人の中にすず子があつた。自分自身もをつた。不知《しらず》不識《しらず》自分も矯激な言動をするやうになつた。ものは勢である。「かうしては居られない。」「進むべき道は死を賭した一事である。」こんな雰圍氣が、すず子を深くつつんだ。ある夜すず子が自分にあることを囁いた。自分はその當時それを諌止することをし得ない程、自分自らが剋殺《こくさつ》の感じに滿ちて居たのであつた。
 その時の自分の態度が曖昧《あいまい》であつたのをすず子は賛同したんだと思つた。それも無理がない。實際に自分は暗《あん》に慫慂《しようよう》したやうな態度を示して居たからである。それから三阪に對しても、多田に對しても、同じ樣な應答をして居つた。三人はいつの間にか共通の意志を作つたらしい。それも自分には分つて居つたが、自分は何とも云はなかつた。
 すべて自分である。戰慄すべき慘禍の※[#「酉+饂のつくり」、第3水準1−92−88]釀者《うんぢやうしや》は自分である。自分は其|責《せめ》を負はなければならない。進んで身を渦中に投ずるか。退いて原因力を打ち斷《き》つてしまふか。自分はこの二つの何れかを擇ばなければならない。

 爪先上りの緩い傾斜を作つて山は南の方へ延びて居る。斜面には雜木一本生えてない。鋏をいれたかとも思はれる樣な丈の揃つた青草の中の小途《こみち》を、亨一とすず子は上つて行く。途が頂上に達する處に一本の松が立つて居る。その木の下まで行けば、向うは眼界がひろくなつて、富士山がすぐ眼近に見える。村の人は富士見の松と云ひならはして居る。二人はそこまで行つて草を藉《し》いて腰を下した。五月の日盛りの空はぼうとして、起伏する駿州の丘陵が霞の中から、初夏の姿をあらはして居る。風が温かく吹いて、二人の少し汗した肌を心持よくさました。
 二人は暫く默つて景色に見入つて居た。
「私、彌《いよ/\》決心しました。」女の方から話しかけた。
「ええつ。」と男は問返すやうな目付をした。
「私、行つてきますわ。勞役へ。」女はかう云つて男の手をとつた。そしてそれを自分の膝の上までもつてきて、指を一本づつ折るやうにして、まさぐつた。
「今決しなくともいい問題だ。」男はわざと空々しく云つた。
「とても罰金が出來さうにもありませんし、それに……。」
「金なら作る。屹度《きつと》私が作る。」男は皆まで云はせずきつぱり斷言した。
「それに私はいろいろ考へることがありますの。第一金錢問題で此上貴方を苦しめると云ふことが私には堪へられないんですもの。」
「そんなこと……。」男の云はうとするのを今度は女が遮つた。
「まあきいて下さい。私度々貴方に叱られましたわねえ。落着かないつて。私もどうにかして平和が得たいと思つて、いろいろ反省もしたんですけど、何だか世間が私をぢつとさせて置かないやうで、どう云つたらいいでせう。私の身體ぢゆうに油を注いで、それに火をつけて、その火を風で煽る如《やう》に、私は苦しくつて苦しくつて、騒がずに居られないやうな、折々氣が狂ふのかと思ふやうな心持がして來ますの。私ねえ。貴方のお傍《そば》に居ないのであつたなら、疾《と》うにどうにかなつて居ましたのでせうよ。」
「貴方はまた亢奮しましたね。いけません。いけません。」男は女の膝から自分の手をもぎとる樣にして引いた。
「いいえ。大丈夫です。今日は私はしつかりして居ます。私が勞役に行くと云ふことも、畢竟《ひつきやう》は貴方の御意思通りに從はうと云ふにすぎません。なぜとおつしやるんですか。私は勞役に服して、そこに平和を發見して來ようと思つてるんですもの。あすこは別世界でせう。全く世間とは沒交渉でせう。今日のことは今日のことで、明日のことは明日と云つたやうに、體だけ動かして居れば、時間が過ぎて行く處です。自由、自由つてどんなに絶叫して居ても、到底與へられない自由ですもの、いつそ極端な不自由の裡に身を置いてしまへば、却つて自由が得られるかもしれません。」
 亨一は此話の間に屡々|喙《くちばし》を挿《は》さまうとしたがやつと女の詞の句切れを見出した。
「馬鹿な、空想にも程がある。貴方だつてあの中の空氣を吸つたことがある人ぢやないか。あの小さい小ぜりあひ、いがみあひ、絶望が生んだ蠻性。あれを貴方はどう解釋してるのです。」
「私にはまだ大きな理由があります。蕪木のことがその一つ。」女は男の體にひたと身をよせた。
「蕪木が私達を呪つて居ます。私が貴方の傍に居ることは、貴方の身體にも危險です。私があちらへ行つたら、ちつとは蕪木の憤激がやはらぐでせう。それから私は貴方の教訓に從ひます爲に、三阪さん、多田さんとも文通を絶つ必要があります。官憲が丁度よく私と外界とを遮斷してくれますから、私に對するあらゆる讒謗《ざんばう》も、呪詛《じゆそ》もなくなつてしまひませう。その代り私が歸つて來ましたら……。」
 女は今日に限つて涙が出ない。之《こ》れ丈《だけ》の事を云ひ盡すのに、何にも泣かずに云つてしまつたことが不思議のやうに思はれた。こんなにものを云つてる人間が自分の外にあつて、自分はただその假色《こわいろ》をつかつてるにすぎないのではあるまいかとさへ思はれた。
 ふとこんなことを考へはじめると、今度は本當に悲しくなつて涙がおのづと流れ出た。
「貴方のお話は分りました。」男はかう云つて其次の詞を擇ぶやうな樣子をしてしばらく眼をとぢて居たが、
「貴方は貴方の健康と云ふものを考へて見ませんでしたか。」と云つた。
「いいえ。」女ははつきり答へた。「私の健康。そんなものが何んでせう。私の肋膜《ろくまく》は毎日うづきます。いつそ腐つてどろどろになつたら、それでいいでせう。それで。」
「いけない。貴方は又亢奮して居ます。そんな亂暴な。」
「亂暴でも生命は自ら壞《やぶ》りはしません。」
「さうでない。貴方は自分で死場所をさがして居るのです。」
「だつて人間には未來がわからない筈ですもの。」
「けれど貴方にはその未來がわかつて居るんです。死ぬる時、場所、方法、それ等はみんな貴方にわかつて居る筈です。」男は女の爲す處を見守つた。彼は決して自分の計畫を棄てるのではない。彼が勞役に行くと云ふ決心も、我を欺き、世間を欺く一つの手段にさへ過ぎないと思はれた。
「私は貴方の未來が不明になつてしまふことを希望します。私が貴方を愛する力の及ぶ限りはこの希望の貫徹に向つて進まねばならない。」
 女は涙のない以前に戻つた。自分が此決心を男に打明けるに至つた迄の徑路を思返して見た。身にあまる大難問が三つも四つも重なり合つて、女の思考、情願、判斷を混亂させてしまつたので、たどるべき徑路の系統の發見に長い間苦しんだ。どうしても棄てることの出來ないのは三阪等と企てたある計畫であつた。之《これ》は決して棄てない。かう斷案を一番遠くのものにつけてしまつて、それから段々近い方の問題の整理を考へた。罰金のこと、蕪木のこと、それは勞役に服すると云ふ方法で略《ほぼ》解決がつくと思はれたから、最初に片附けてしまつた。自分と亨一との問題、之が彼には最も至難のものであつた。男が目立つて血色がよくなつて、段々晴々した氣分に向つてゆくのを見ると、男の愛する「生」の歡喜の前に自分の計畫の全部を捧げてしまひたいと云ふ心が萌《きざ》すのであつた。そればかりではない。彼は眞に男を愛して居た。普通の場合で普通の出來事が原因をして居るものならば彼はその原因を破つて破つて、どうしても男の傍に居るやうな手段に出づるに違ひない。ただ彼の計畫は普通の場合でない、普通の事件でない。彼は生命を犠牲にしても辭さない覺悟である。戀愛――勿論それを犠牲とすることに躊躇すべき筈ではないのであつた。それでも女は戀愛を棄てるに忍び得なかつた。兩立すべからざる二つの情願を二つとも成就さす方法は到底發見し得られさうにもなかつた。
 もし、もし女が大膽な計畫に、も一層の大膽さを加へて、男をもその計畫の一人に引き込んで、一緒に實行して一緒に死んでしまふ。と云ふ決心が出來れば、或は二つの情願が、死の刹那《せつな》に融合《ゆうがふ》してしまふ樣にもならうが、之とて今の亨一に強《しひ》ることが出來なかつた。結局未解決にして置いて、先づ勞役のこと丈をやつてしまはうと思つた。勞役中で幾分か戀愛の情緒がゆるむかもしれない。又例の計畫の狂熱がさめるかもしれない。なるべくは歸つて來て男の傍で、安易な生活の出來る女になつて見たいと思はぬでもなかつた。ただかう考へてくるときにいつも彼の目前に立ちはだかる一つの恐ろしい事實がある。それは病氣の問題だ。彼の病はもう左肺を冒《をか》して居ると云ふことを彼は自覺して居つた。病氣で死ぬ位なら、いつそ××の爲に死なう。こんな風に端のない絲をたぐるやうに考へがぐるぐるとめぐつてあるくのであつた。
 今日男に打ち明けたときでも、無論最後の解決がついてるのではなかつたが、男はもう彼にその覺悟があるのだと思つてしまつた。そして其計畫を止めてしまへと切諌《せつかん》をした。女は、「それはまだ考へなけりやならないことです」と云はうとしたが、それが女の自負心を傷けるやうにも思はれた。あの事を止めてしまへば自分は「ただの女」となつてしまふ。一旦は喜んで貰へるかもしれないが直《すぐ》に又侮蔑がくるであらう。
 とうとう女は云つた。
「貴方は私をどうなさらうと云ふお積り。」女の詞の調子はやや荒々しかつた。
 男は女が何を思違つて居るのであらうかと思つて、殊更《ことさら》に落着いて、
「どうしようとも思ひません。ただ貴方に平和が與へたいばかりです。」と云つた。
「そんなもの私には不必要です。私は戰士です。革命家です。鬪ひます。あくまでも。」かう云つた女の脣は微にふるへて居た。
「貴方は私の云ふことを誤解
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