判事は何と云ふことなしに身のまはりを顧みた。目は手釦《てボタン》の上にとまつた。留《と》めの方がとれかかつて釦がぶらりと下つて居た。あわててそれを篏《は》め直しながら、
「見ろこの釦は。七十五銭で買つてもう三年にもなる。あの弐十円さへあれば、二十箇以上を買ひ得るのだ。あいつがとつたばかりに…………。」
 彼はぢつと犯人のことを考へた。雨の日…………大雨の日。高い高い家が押しかぶさる様にならんでゐる。どれもどれも赤煉瓦だ。そして窓が一つもない。路はこの高い家に囲《かこま》れて僅に細い。雨がしぶく、横さまにしぶく。壁にぶつつかつて滝の様に水が落下する。道路の砂はすつかり流れてしまつて、小石が隆隆として突起してゐる。歩いたら足に喰ひ込むかもしれない。と見ると黒いものがばたばたと駈けて来た。そして小石の上をざくざく踏み散らして行つたと思ふと、曲り角ではたととまつた。そこには赤い郵便函《ポスト》が、鬼のやうな顔付をして立つて居る。黒服の怪物は中腰になつてその函をどうかしてゐるのであるが、幻はやがて彼の黒服を通して、且つは彼の肉体を通して、彼の手と函との関係を歴然《まざまざ》と透視させた。彼の手は
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