云ひたい丈のことを云ひたくもなるであらうし、云ひ尽した上の判決なら仮令《たとへ》判決が無理だと思つても諦めることが出来るであらう。只此国の裁判官にはそんな複雑な感情を働かして居る遑《いとま》がない。目の前にあるものはみんな罪人である。早く監獄へいれてしまへば始末がつく。之れだけを考へて裁判長は被告を訊問し、被告は此方針につれられて訊問をうけつつ審理は進んで行く。
「私はそれを別にして…………。」
「つまり取つてしまつたと云ふのだな。」
「はい。と…………と…………とつ………取つたけれど…………。」
「よし。」
 傍聴席にはいろいろの心が動いて居た。最前から彼等のすべては、海鼠《なまこ》のやうに心もとない被告の陳述と骨のやうに乾からびた裁判長の訊問とを聴くらべて居た。被告の云ふことを裁判長が聞取つてくれないで、雙方の意思が離れ離れになつて居るのを歯痒いとも思ひ合つた。「取つた」と云ふことを云ひたくない為に、三度云ひ淀《よど》んだ被告の態度は、ある者をして吹き出させやうとしたが、自分が今いかめしい法廷の中に居るのであると気がついたとき僅に笑を噛み殺した。被告に父母がないのであらうか。兄弟はどうであらう。何が苦しくて僅六銭の窃盗罪を犯したのであらう。日給がいくらで、くらしに何程あればよかつたのであらう。実際くらしがつかなかつたのであらうか。つかない程に手当が少かつたのであらうか。生きて行くことが出来る丈の手当すら与へないで、仕事は一人前を吩付《いひつ》けると云ふのは、隙さへあつたら盗《ぬすみ》でも騙《かたり》でもして命を維《つな》げと云ふにひとしいとも云ひ得る。労働の値は供給によつて定まるものだと云へば、その不十分の(生命を維ぐに)報酬に甘《あま》んじて居た被告は、甘んじて居たこと自体が間達つて居るのである。けれどもそれは仕方のない事である。この国の労働者にはそれでも甘んじて居たいと云ふ種類の人で満ちて居るのであるから。被告一人の力では労銀の上げ下げをどうすることも出来ない事であるのだから。しかし、この日の傍聴人にはこんな真面目な観察をしたものは一人《いちにん》もなかつた。彼等はただ被告と裁判長との応答をきき乍ら、そのこんぐらかつた話のゆきさつに興味をよせ、要之《えうするに》犯罪や裁判など云ふものは馬鹿馬鹿しいものであると考へたにすぎなかつた。
 裁判長は被告が「取つたんです」と云つた詞で満足した。
「取つたんですけれど…………。」と被告が云つたその「けれど…………」を全くないものにして「よし」と云つた。そして次の審問にかかつた。
「第一の事実………‥御大喪《ごたいさう》の絵はがきを窃取したことは間違ひないのだな。」と裁判長は問を改めた。
「はい。…………それは…………それは…………」
「それから懐中電燈も取つたんだな。」
「その…………その…………小包が切れて居まして…………。」
「取つたと云ふのだな。」
「はい。…………小包がきれて居まして、…………絵端書は…………。」
「お前は一体九月から集配人になつたんだな。」
「はい。見習を少ししまして。」
「そして本件の犯罪は九月十五日から十八日の間に犯して居る、」かう云つて裁判長は、ぐつと被告をねめつけた。
「お前は最初から泥棒をするつもりで雇はれたんだ。集配人になるとすぐぢやないか、本件の犯罪は。」
「いえさう云ふ訳ではありません。御大喪の絵はがきは…………。」
「もういいわ。証拠をよみきかせる。」[#底本は「」」を脱字]
 裁判長の読んだ証拠書類と云ふのは、悉く被告の犯罪事実を確定するに必要なものであつた。否犯罪事実を確定するものの外何にもなかつた。被告の利益になることは勿論、被告の主観性を窺ふに足るべき材料は一つもなかつた。もとより何等同情を寄すべき記述などがあらう筈はなかつた。
 半《なかば》目をとぢて怠屈《たいくつ》さうに椅子にもたれて居た検事は、立つて論告をした。被告の控訴は理由がないから棄却せられたしと云ふ丈のものであつた。
 之れで此被告の審理は終つた。
 此審理を粗雑だと云ふ人がもしあるならば、作者はかう云ふ人に云ひたいことがある。先づ此被告の窃取した財貨は合計三円程のものである。此三円の財貨を被告が不法に窃取したために、郵便局長が調べ、警察が調べ、検事局が調べ、一審裁判所が調べ、今又控訴裁判所が調べた。平均三十分宛としても二時間半の時間を奏任官以上の人の手間を費さしめて居る。それに書記から廷丁から、公判になれば立会検事も陪席判事も必要である。この被告は二ヶ月以上未決拘留になつて居て、一日十銭以上の給与を国家が支弁し、送迎には馬車もいる、看守もいる。被告が犯罪以来被告一人の為めに費した費用は百円を下るまい。しかも国家は労働者を一人失つて居る。これ丈の迷惑を誰が国家にか
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