けたかと云へば、無論被告の不心得からである。斯の如きものに対して本来何を尊重し、何を保護してやらなければならないと云ふのか。作者は殆ど了解に苦しむものである。作者はかかる国家に対し、及びかかる裁判所に対し、並にこの愚なる仕事に対し、文明の有り難さを染染《しみじみ》感謝しなければならない。

「う、う。」裁判長なる判事は夢から醒めたやうにぽかりと目をひらいた。身体は仰向けになつて、両手を組合せてそれを枕の代りにして頭にしいて寝て居たのである。四時過ぎに役所から帰つて来て洋服の儘に机の前に坐つて居たが、妙に心気が苛立《いらだ》つのでいつのまにか倒れてしまつた。妻は姉が来て芝居へつれだしたとかで小女《こをんな》が独り留守をして居た。それが第一俺の気に入らなかつた始めであつた。彼はかう思ひ乍らも一度黙想を繰返した。
 俺は妻の仕打が面白くなかつた。もう帰る時刻だと云ふのに、留守の間に帰つたら俺がどんなに物足らなさを感ずるであらうかと云ふこと位は、彼も十分了解して居る筈である。一体あれを誘《おび》き出した牛込の姉が悪いんだ。靴を脱いで戸をあけると、部屋の空気がいやに冷たい。と見ると室ぢゆうの品品――机から、本箱から床の唐獅子からがけろりかんとして、「貴方はどなたです」と云つたやうな、俺とは全くなじみのない品物のやうであつた。俺はやけに風呂敷包を抛《はふ》り出して机の前に坐つて見た。火鉢の炭までが乱雑にくべられてある。「俺をこんな不愉快な目に遇はせて…………」と、俺は躍気《やくき》となつて妻と姉を呪つた。小女が「お着替《きかへ》なさいまし」と云つて来たとき、俺は「誰が着替なんぞするものか」と心の中で叫んで、あれの帰る迄此儘に居て、「これ見ろ」と見せつけてやらう。さうしたら幾分腹|癒《い》せになるであらう。こんなことを考へて居るうちに、俺は段段|悒欝《いううつ》な気分になつて来た。何でもかでも気掛《きがかり》になる様な心持がしてならない。妻が留守だと云ふことの不満の外に、より大きな不満や不安が俺の身辺を取捲いてる様にも感ぜられる。俺は意思で生きてゐる。感情には捉はれたことがない。俺は嘗て物に狂うたことがないと高言が出来る。いつもかう云つては居たもののそれは全く虚勢である。俺はかなり喜怒哀楽の変化の激しい人間である。ただ俺は法律を学んだ為に、秩序とか規律とか云ふものの精神を聊か知得した。それが俺の外行《よそゆき》のときの冠《かんむり》とも衣服ともなつて、とにかく見かけだけは正確らしい姿にもなる。今夕《こんゆふ》はもう心の上に被《はを》つたものは脱ぎすて、素つ裸になつて、盛んに感情をのみ動かして居た。自分で動かさうと思つて動かしたのではないけれど、押石《おもし》をとれば接木《つぎき》の枝が刎《は》ねかへる様に、俺の感情も押石の理智が除かれたから、自《おのづか》ら刎ねかへつて、その恣《ほしいまま》な活動を起して来たのである。俺は又それを押へようとはしないで、むしろ其|迸《ほとばし》るが儘に任せて、ぢつと結局を見つめてやらうと思つた。
「何がそんなに不満なんだい。」俺は自ら心に問うて見た。こんなことを問うたつて誰が答へるものか。今俺の感情は甚だしく乱調になつて居るのだ。何をどうしようかと云ふやうなことの、筋道がどうして立て得られるものか。俺は滅茶苦茶に不満なんだ。今日逢つた奴等の顔から始めみんな面白くないんだ。
 彼は起き上つた。机に頬杖して黙つて硝子越しに庭先を見入つた。八坪程しかない庭の片隅に小さい檜葉《ひば》に交つた一本の山茶花が、薄色に咲いていかにもはかなげな夕暗の寂しい気分を漂はせて居る。竹垣の直ぐ向《むかふ》は隣家の平家造の蔀《しとみ》のさびれた板にしきられて、眼界は極めて狭い不等辺三角形の隙から、遠い空中が覗《のぞ》かれる丈である。空には何の色もない。
 鷲のやうな目をした頤鬚の濃い同僚の一人を思ひ出した。「行政官はやはり早いですなあ。」かう云つてあの男は俺を見てにやりと笑つた。俺はその時官報を披《ひらい》いて見て居つた。それはあの男が見ろと云つて俺に指示した叙任欄のある箇所であつた。高井某が某省の局長となつた。俺と同窓であつたが、俺とは競争相手にもならなかつた男であつた。同じく卒業して同じく司法部へはいつたがあの男は検事を志望して早く行政部へ転じてしまつた。追追重く用ゐられるやうになつて今度の政変で一躍して局長に昇進した。
「俺はかうして何年も何年も同じ所に燻《くすぶ》つて居るんだ。そして昇級の宛《あて》もない。」俺はあの男の身の上を羨むと云ふのではないけれど、名利を慕ふ俺の本能は顫ひを感じた。その鼻先へ出て「行政官は早いですなあ」と俺の顔と官報とを一目で覗き分けをしつつ云つたあいつの顔は「この冷笑と侮蔑と憐憫とを君に捧げよう」と云
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