はんばかりであつた。
「まだ少しも片付《かたつ》かないのでね」と高井は、俺を喜んで迎へた。一昨日の朝俺は彼の昇進を祝ふ為に彼の官邸を訪問したのである。九時前であるのに応接間には地方の有志家らしい人が一人もう行つて居た。
「失敬ぢやが、どうぞ、君。」彼は自ら暖爐の火を見たり椅子を直したりして、俺を引張るやうにしながら、腰を据ゑさせた。三間《さんげん》に七間程もあらうかと思はれる可なり細長い部屋の廻りは本箱やら、飾棚やらが不秩序に押し並んで居て、一一記憶に残る程の品物ではないが、雑然としてあちこちに置かれてある置物や豹の皮や、時計や花瓶《くわへい》などが、彼の交際範囲を説明するに十分参考になるものであつた。彼は先客の人に対して議会解散の予想などを喋喋《てふてふ》述べて居たが、「こんなへつぽこ役人ではね、」と云つて湧き上る様に笑つた。その得意さうな笑声を俺がどんな邪《そね》み根性で聞いて居たかと云ふことは、彼の顧慮する所では勿論ないらしかつた。
「それがなんだ」判事は屹《きつ》となつた。拳を握つて机の上を叩いて見た。一つの鈍い音と一しよに不規則に積んであつた机の上の洋書が一冊、すべりおちた。クロースの表紙が少しはだけて中から一通の手紙が出た。昨日来た伯母からの手紙である。判事はそれを取上げた。
 伯母は日本の女には珍らしい背の高い人で一見頑丈なつくりであるが、病気には極めて弱虫であつた。五十をこしてから空咳《からせき》がすると云つて寒い時節になると炬燵《こたつ》の中に跼《くぐま》つて居た。力のないそれで居て胴中から出る様な咳の音を聞くと、側に居るのが危険であると思はれるのである。同じ市中に居つても巣鴨と青山では往来がそれほど近くはなかつた。判事の方からは或は避けたいと思つたからでもあつたらしい。幼い時母に分れて此伯母の手に育てられたと云ふことは、それでも判事には幾分の親しみを残した。
「親類と云ふものは俺には手足纏ひだ。唯それだけだ。」伯母の病気が危篤だと云ふ代筆の手紙を手にして彼はかう呟《つぶや》いた。両肩が強《きつ》く骨立つて頸《くび》が益益長く見える、賤げな左の頬の黒子《ほくろ》と鍵の様に曲つた眼尻と、ひつくり返すやうな目付をして人を見る癖と、それから遇ひさへすれば口説《くどき》上手《じやうず》にくどくど云ふ口。小汚《こぎたな》い六畳の部屋で、せいせい云つて寝てゐる険相《けんさう》な顔付を考へると、何にもかも嫌になつてしまふ。
「それでも俺は金を送つた。行かなきやならんのではあるけれど、と云つて取り敢《あへ》ず、俺には大変な犠牲である弐拾円を今朝出したんだ。」
「之れ以上。…………。俺が顔を出した処で…………。俺は医者でない。病気は癒らない。金さへ見れば伯母は喜ぶんだ。」
 判事はあの欝陶《うつたう》しい部屋で、あの気色《きしよく》悪い人間の死を訪《おとづ》れることを避ける為には、少くない金をも吝《をし》まなかつた。婚礼と新築祝ならいつでも行くんだけれど、俺は病人や葬式は真平だ。彼はいつもかう云ふことを云つては家内に笑はれてゐたものである。
「伯母はきつと喜ぶだらう。」判事は自分の手紙を手にして、床から起き直つて、押しいただいて居る病人を想像してにつこと笑つた。
「もし届かなかつたら。」ふいと判事は気がかりなことを思ひ出した。脊髄のあたりがすこし疼《うづ》くやうな感じがした。書留にしなかつたからと云ふことが殊更不安を感じさせるのであつた。「僅か拾銭を倹約した為に」と思ふと、急に忌忌《いまいま》しくもなつてくる。もし届かないとなると俺はどうしたらいいだらう。も一度送らなければならないのか。送らなければ俺の心は通じない。送つたんだが盗まれたと云つた処で、伯母から見れば送らなかつたと同じである。俺が送る丈けの志はあつたんだと云ふことだけは、伯母も、その他の親戚も認めてくれるかもしれないが、認めて貰つたつて、やはり伯母の手には何もはいらない。俺は俺だけのことをしたのであるけれどそれが全く空《くう》に帰したとなると、俺の行為は結果を産《う》まない行為である。いや結果は産んだ。泥棒をして盗ませると云ふ結果だけは。そしてそれは俺が予期しない意外なものであるのだ。
「其日は大雨で…………。」とあいつが云つたと、判事は今日の公判廷に於ける郵便窃盗を思ひ起した。あの阿呆面《あはうづら》の男がよくも郵便物を盗んだものだ。人間の意思と云ふものはすべての動作の基礎を作るんだ。道徳、法律、其他人間の行為を批判する法則は、みんな此意思の発展の上に組み立てられてあるのだ。その重要な意思の伝達の機関として、国家自ら郵便制度を作つて、事業の経営を自らして居る。通信の安固と秘密。之がなくなつて誰か日本を文明と云はうぞ。あいつは文明を破壊する兇徒《しれもの》だ。
 
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