判事は何と云ふことなしに身のまはりを顧みた。目は手釦《てボタン》の上にとまつた。留《と》めの方がとれかかつて釦がぶらりと下つて居た。あわててそれを篏《は》め直しながら、
「見ろこの釦は。七十五銭で買つてもう三年にもなる。あの弐十円さへあれば、二十箇以上を買ひ得るのだ。あいつがとつたばかりに…………。」
彼はぢつと犯人のことを考へた。雨の日…………大雨の日。高い高い家が押しかぶさる様にならんでゐる。どれもどれも赤煉瓦だ。そして窓が一つもない。路はこの高い家に囲《かこま》れて僅に細い。雨がしぶく、横さまにしぶく。壁にぶつつかつて滝の様に水が落下する。道路の砂はすつかり流れてしまつて、小石が隆隆として突起してゐる。歩いたら足に喰ひ込むかもしれない。と見ると黒いものがばたばたと駈けて来た。そして小石の上をざくざく踏み散らして行つたと思ふと、曲り角ではたととまつた。そこには赤い郵便函《ポスト》が、鬼のやうな顔付をして立つて居る。黒服の怪物は中腰になつてその函をどうかしてゐるのであるが、幻はやがて彼の黒服を通して、且つは彼の肉体を通して、彼の手と函との関係を歴然《まざまざ》と透視させた。彼の手は溢れる許りに詰め込まれた函の手紙を一一とり出してゐる。五枚、十枚、二十枚。手当り次第に掴み出して手当り次第に抛り付けるやうであつた。二三度同じことを繰り返してゐるうちに、やつと取り出した一通の封書。「おおこれだ」と云はない許りに、期待も焦心も願望もそれ一通に籠つてゐるかのやうに、狂気じみた身悶えして、怪物はただ凝視した。「それが俺ののだ。」
吃《どもり》の真似をすると終《しまひ》には吃になつて了ふ。気違の真似をすると終には気違になつて了ふ。俺もこんな妄想を拵《こしら》へてゐるうちに、或は本統に被害妄想狂になつて了ふかもしれない。全く愚なことだ。一体世の中の事は、斯《か》うなつて欲しいと思ふ願望が容易に実現しないものであると共に、斯うなつたら困ると思ふ杞憂《きいう》も案外に到来せずに済むものである。災害と云ふものは、むしろ思ひがけない方面から思ひがけない方面へと闖入《ちんにふ》して来るものだ。さう云ふときにじたばたしない修練は或は必要かもしれないが、さもないことで、神経の昂ぶるに任せて、目の前に見るやうな一幕ものの舞台を考へると云ふことなど、その光景から恐怖や欝憂《うついう》を握《つか》まされると云ふことなど、みんな意思の命ずる処ではないのだ。俺の生活は下らない感覚の顫動の為に攪乱《かうらん》されるやうな、そんな浮《うは》ついたものではない。
「被告は決して悪人ではありません。」よく法廷で弁護人が弁論する。
「被告は決して犯罪を犯す積りではありませんでした。只その時の被告の身の上には非常な災難が降りかかつてゐました。甲のこと。乙のこと。丙丁の関係。被告はどうすることも出来ない困迷の結果、本件犯罪事実の如き行為を敢てしたのであります。敢てしなければならない結果になつたのであります。被告は決して悪人ではありません。」
かう云つてしまへば世の中に悪人は丸《まる》でないことになる。けれども俺は此弁明を直《ただち》に認容することは出来ない。人間に自由があると云ふことは空中の鳥の様な自由でない。社会組織によつて整理された自由である。之を制限された自由と云つてもいい。法律は人の行為の限界を定めて、動くべき場所と動くべからざる場所との区劃をつけて一本の縄を引いて居る。その縄張の一線が善悪の境界線である。そこまで来て一呼吸するかしないかが善悪の岐《わか》れる大切な処なのだ。其場合に或者は呼吸《いき》もつかずに飛び込んでしまふ。足が縄にからまつて、ばつたり倒れる。之が法廷に於ける被告の多数だ。之を悪意がないと云つても、法律は許さない。社会の秩序が許さない。中にも今日《こんにち》の郵便窃盗の如く、最初から隙を覘《ねら》つて居たものは論外である。此程の犯人は犯罪の計画自体が其一切である。予定の行動を予定の如く採つたと云ふべきものである。一国通信機関の秩序と信用とを破壊すると云ふ点に於て、彼には根強い悪性がある。斯の如き被告には同情もない、酌量すべき事情もない。重く罰しなければならない悪人だ。
判事は机の下へ落ちた本を拾ひ上げた。そして頭を二三度振つて見た。少し重い、心《しん》が少し痛い。
「風邪でも引いたのかしらん。」
判事はかう思つて又ぐたりと横になつた。
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註 本篇は素より作者の創作である。殊に後半は全然空想である。モデルの誰たるかを模索することの無意味なる事を、特に読者にお断《ことは》りしたい。[#地から1字上げ](大正二・一稿/「スバル」大正二・二/『畜生道』 所収)
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底本:「定本 平出修集」春秋社
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