がぬれた。切手がはげて居たと云ふのか。馬鹿。いい加減にしろ。郵便を入れに行くのに、誰が手紙を雨に濡らして行くものか。取つたら取つたと明白に云つた方がいいのだ。馬鹿なことを云つて強情《がうじやう》を張ると損だぞ。」
「いいえ。雨が郵便函の口からしぶきこみました。」
「それがどうした。」
「手紙が一杯になつて、函の口元まで一杯になつて…………」
「そんなことはどうでもいい。要之《えうするに》切手ははげて居たと云ふのだな」
「はい。一枚は函の隅の中に…………」
「もう一枚は…………」
「私が袋にいれるとき手紙がぬれて居て、独りでにはげました。」
「それをどうした」
「私はそれをべつにして…………。」
被告は極めて聞取り悪《にく》い土音《どおん》で裁判長の耳を困らした。事件の審理を出来得る限り簡明にしたいと云ふ念よりしかない裁判長には、此不明瞭な答弁が頗るもどかしいのであつた。いらいらして問へば、自ら詞も荒く調子も太くなる。被告は益益萎縮して益益しどろのことを云ひ立てる。被告の云はうとするところはかうである。その日は非常の大雨で、しかも郵便函には郵便物が一杯であつたから、その口元にある手紙の二三通は雨がしみ込んで濡れて居た。その為め取り出すときに一枚切手が剥げて居て函の中に落ちてあり、も一枚はかばんへうつすとき剥げた。そこでその二枚を別にしまつて――竊取すると云ふ考へもなしに――置いた…………(此先の事は被告は裁判長に遮られて説明をしなかつたから、作者が想像すると)そして局へ帰つて届けようと思つて居る間に時間が妙に過ぎて、しまひに届ける機会を失つてたうとう自分の私用に使つた。最初より切手を剥ぎとつて竊取したのではない。
かう云つてそれが聞いてもらへたら、被告は自分の罪状がいくらか軽くなるであらうと思つたらしい。
けれども裁判長にはそれが何の斟酌《しんしやく》にも値するものでないと思はれた。切手が剥げて居つたか、剥いで取つたか。そんな詳しい事まで取調べて居る暇がないと裁判長は思ふのであつた。それ故手紙が雨に濡れたと云ふ被告の弁解も一喝の下に之を却《しりぞ》けてしまつて聞入れない。郵便函に投入する人が雨で手紙をぬらして来たと被告が云ふのだと誤解して、そんな愚かな弁解はよせと被告を叱りつけた。そしてその誤解を解かうとせずに、即ち分らぬなりに審理を進行した。之れはしかし此国の裁判官としては普通の遣り口なのである。なぜと云ふに、此国の裁判官は犯罪の事実を簡単明快に決定すると云ふことの外、被告の利益などを取調ぶる必要がないと掟《おきて》られて居るからである。
作者は日本語を使つて今茲に法廷の模様を写生しつつあるのだから、日本の裁判官の審理振を叙するものとして読者は迎へるかもしれないが、それは読者の早合点《はやがてん》である。日本は立憲国で、法治国で、文明国である、日本の裁判官は大方法学士である。進歩した刑法理論や刑事政策に通暁した裁判官である。無際の憐愍《れんみん》と同情とを以て、陛下の赤子に対し公明にして周到なる審判を為すことを理想として居る人人である。冤《えん》に泣く民の一人にても存在すると云ふことは聖代の歴史の一大汚辱なりとして恐懼自戒措く能はざる人人である。此人達は天皇の御名の下に裁判権を行ふ。天皇は此人達が天とし神として仰慕する処、もし裁判権の行使に粗鹵《そろ》と誤断とあらば、之れ天に背き神に背くの大罪人なりと思つて居る。此の如き敬虔にして厳粛なる日本の裁判官に、今作者が叙述する様な無作法極まる審理振が決してあるべき筈はない。外国語の駆使に堪へざる作者が日本語を以て日本の裁判所に於ての出来事らしく叙述するのは、蓋し止むを得ない処、読者は深く之を諒して此篇を読下せられたい。
ある国の裁判官は斯の如き無作法な審理を日々に行《おこな》つて居る。只茲に例外の時がある。それは被告人に弁護人があつて、それが審理に立会《りつくわい》したときである。しかもその弁護人が摯悍《しかん》矯直《けうちよく》にして裁判官を面責することを恐れざる放胆を予《あらかじ》め示して置いたときである。かかる場合には裁判官は聊《いさゝ》か態度を慇懃《いんぎん》にし審理を鄭重にし成るべく被告の陳弁を静に聴いて居る。しかしそれはただ聴くだけである。聴いてそれを判断の資料に加へると云ふ考へがあると思つたら、その予期は見事に外れてしまふ。此人達は弁護人に対して敬意を表するに止まつてゐる。それが被告人の利益にも不利益にもならない。結局は聴いてくれないときと同じ結果になる。
本論の被告人には弁護人はない。ないから被告人は心の十分の一も吐露することが出来ない。出来ないからつて、出来たからつて、それで裁判官の心が動かないとすれは、どうでもいいことである。けれども被告となつて見たら
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