つたが、判官は型の如く居並んで、型の如く判決の主文を朗読した。「被告ヽヽを死刑に処す。」神妙に佇立して判決の言渡を受けて居た被告は、此主文の朗読を聞くと等しく、猛烈としていきり立つた。「この頓痴気野郎が」と云ひ様足許近くに置いてあつた痰壺を取上げて判官目がけて投げつけた。幸にそれは法官席の卓子の縁に当つて砕けた為、誰も負傷がなくて済んだ。人間は死ぬと云ふことより大きな恐怖はない。殺されると定つてしまへば、世の中に恐ろしい者とては何もない。野性、獣性を発揮して思ふ様暴れてやらうと云ふ兇暴な決心をするのは、斯の様な被告には、有勝なことである。
今二十幾人を一時に死刑を宣告した法官諸氏は、果してこんな出来事が起るかも知れないと心配して居たのであらうか。否それはさうではない。法官諸氏は判決の言渡をする迄がその任務である。任務さへ終れば、法廷には用のない体である。それで席を引いた。その外に何の理由もあるまい。
しかし若い弁護人は之に理由がつけて見たかつた。日本の裁判所が文明国の形式によつて構成されてから三十有余年、其間に死刑の宣告をした事案とて少くない数でもあらうが、一時に二十幾人を死刑に処したと云ふ事件は、此事件唯一つである。法を適用する上には、判事は飽迄も冷静でなくてはならない。人の生命は如何にも重い。之を奪ふと云ふことは、如何にも忍びない処である。只|夫《それ》国法はそれよりも重く、職務は忍ぶ可からざるものをも忍ばざるを得ざらしめる。仮令何程の愛着があり、何程未練のあつても、殺すべき罪科に該《あた》るものは、殺されなければならない。一人と云はず、十人と云はず、百人と云はず、事件に連つた以上は、数の多少は遠慮すべきことの問題とはならない。それで此事件に於ても多数の死刑囚を出した。判官は克く忍びざるを忍んだと云ふべきである。此点に於て誰人が判官の峻刻と無情とを怨むべきぞ。されどもし判官に、哀憐の情があるならば、殺さるべき運命の下に置かれた被告等が今や死に面したる痛苦に対しては、無限の同情を寄せらるべき筈である。試にその法服法帽を脱ぎ玉へ。此被告等を自由の民たる位置に置き玉へ。そして諸公と被告等とが同じ時代同じ空間に、天地の成育を受けた同じ生物なりと観《くわん》じ玉へ。誰か諸公の生命を奪はんとするものがあらう。諸公亦何の故を以て被告等の殺戮を思ふべき。法を執る間は人は即ち法。然らざる時は、判官諸公も即ち人である。人としての諸公が、人としての死刑囚に対したとき、その顔を見るに堪へずとして、自らの顔を背け、寸時もその席にある能はざるの態を示して、出来得るだけ迅速に、しかも威容を乱さずして、その席を退かれたこと、之れ人情の真の流露と見るべきではあるまいか。
若い弁護人は斯の如く推断して、善意を以つて判官諸公を見送つた。
傍聴人は最初より静粛であつた。宣告を聞いてからも、一語を発する者もなかつた。退場と云ふときにも、唯々として列を正して出てしまつた。固より自分一身に関係したことではない。彼等は自らの生活の為、泣き惑ひ、悶えあがきこそすれ、それがこの事件と何の連絡があらう。彼等は彼等の好奇心をさへ満足させればそれでいゝのである。法廷の状況、被告の顔付、新聞の号外よりはいくらか早く知ることの出来る判決の結果。それ等の希望は悉く達することが出来た以上に、彼等に何の慾求があらう。
被告銘々にそれ/″\酌量すべき情状がなかつたか。有つても之を判官が酌量しなかつたか。それは判官として正当な遣方であらうか。中心となるべき四五人の関係事実と、其他の多数者の関係事実とが、全くかけ離れて居るものを、必ず一つの主文にしてしまはなければならないと云ふ法則でもあるのであらうか。それよりももつと重大な影響――かくも容易に多数の死刑囚を出したことより生ずる重刑主義の影響が、国民の精神教育にどんな利弊を来たすであらうか。……之等幾多の疑惑は決して傍聴人には起らなかつた。文明の裁判制度と云ふものは斯程迄に国民の信頼を受けつゝあるのであつた。
若い弁護人は、目前に現はれた死刑の宜告の事実を打消すことは出来ない乍らも、之が真実の出来事であるとはどうしても思へなかつた。二十幾人が数日後に死ぬ。いやどうして死ぬものか。此矛盾した考の調和に苦んだ。忽ち一つの考が頭の中に閃いた、鳴呼、判官は深く考へてゐる。被告は決して殺されることはない。一審にして終審なる此判決は宣告とともに確定する。之を変改することは帝王の力でも為能はざる処である。死刑は即ち執行せられ、彼等はみんな殺される。けれども彼等は死《しな》ない。判決の変改は出来なくとも、その効果は或る方法によつては動かし得ないでもない。或方法……或方法……。
若い弁護人は自分の席を起つて、被告席の方へ足を運んだ。自分の担任した二人の被告にある注意を与へようと思つたが為であつた。其被告は犯罪の中心からは遠く離れて居たものであつた。予審及捜査に関する調書上の記述よりも、被告が法廷でした供述を重んずるといふ主義の裁判官であるならば、彼等は当然無罪となるべきものであつた。少くとも不敬罪の最長期五年の科刑が適当のものであつた。何分にも今の裁判所では、予審及捜査に関する調書の証拠力に絶対の価値が附せられてある。事実の真相と云ふものは、検事及び予審判事が密行して調査した材料から組立てらるべきものであると信ぜられてある。調書は法律知識のある判検事が理詰《りづめ》で作上げたものであるから、前後一貫、些の矛盾や破綻を示さない。被告が公判に附せられたとき、被告の罪科は既に決定して動すべからざるものとなつて了つて居る。此意味に於て今の公判は予審の復習である。予審判事、検事が、極端に被告の自供を強要するの悪習は、この調書に絶対の証拠力を附すと云ふ公判判事の無識、無定見から由来して居ると云つてもいゝ。此事件の如きは殊に調書の作成に苦心したらしかつた。一代を震骸すべき重大犯罪事件の調書として、其数頁を繰つたものは、誰でも被告の自白なるものが、絶倫なる記憶力と放胆なる蛮性からでなければ、決して供述することの出来ない事実の供述から出来上つて居ることを看出し得たであらう。火を放つて富豪を劫掠しようと企てたとか、電気を東京全市に通じて一夜に市民を焚殺する積りであつたとか、聞くだに戦慄すべき犯罪計画を極めて易々と喋散して居る。斯の様な調書が存在して居て、それが裁判所の証拠資料の唯一無二なるものであるとすれば、被告はどこにも逃るゝ途はない。若い弁護人は、其担任に係る被告人に対して何時も気休めを云つたことはなかつた。彼等が無罪を信じ、軽い処刑を信じて居たときも、弁護人は常に首を振つた。
「そんな勇気のある裁判官は無いからなあ。」
しかし彼とても時々もしやと云ふ考を起さなかつた訳ではない。もし裁判官に、洞察の明と、果断の勇とがあるならば……、もしその明と勇とがあるならば……。被告等は無罪となるかも知れない。かう思つて終始法廷の模様に注意した。被告等の公判に於ける陳述を聞いて居ると、どうやら楽観的の気分にもなつて、之れなら大丈夫かも知れないと心に喜悦を感じて法廷を出る。が、家へ帰つて調書を翻へすと、何たる恐ろしき罪案ぞ、之れでは到底助からないと悲観しなければならなくなる。その悲観が事実となつてしまつて、被告等の予期は全く外れた。彼等は矢張り死刑に処せられた。若い弁護人は彼等の失望、落胆が忿懣に変じ、若くは自棄となつて、どんな無分別を起さぬとも限るまいと思つたから、慰藉とある希望とを与へたいと考へて、静に被告の席近く進んだのであつた。
被告席は四列になつてゐて、彼の担任せる被告等は第三列目の中程に居た。彼はその第四列目の右手の通路を隔てた処に、女囚の真野すゞ子が独放れて、一人椅子《いちにんいす》に凭つてるのを見た。彼女は彼を見て黙礼した。彼も同じく黙礼した。一語をも交したことのない女と、一語を交すこともなく別れて了ふのだと思つて、彼は或種の感じに撲たれた。
訴訟法上の形式として、総べての取調の終了したとき、裁判長は被告等に最後の陳述を許した。此許に応じて陳述したものが二人あつた。その一人はすゞ子である。
「長い間御辛労をかけましたが、事件も愈々今日でお仕舞となりました。私はもう何も申上ぐることもありません、又何も悔いる処はありません、私が只残念なのは、折角のヽヽが全くヽヽに終つたこと、それ丈であります。私が女だつたものですから……女はどうしても意久地がないものですから、……。それが私の恥辱です。私共の先人には、勇敢、決行の模範を示して死んだ人が沢山あります。私はその先人に対して寔に済まないと思ひます。私は潔く死にます。これが私の運命ですから。犠牲者はいつでも最高の栄誉と尊敬とを後代から受けます。私もその犠牲者となつて、今死にます。私はいつの時代にか、私の志のある所が明にされる時代が来るだらうと信じて居ますから何の心残りもありません。」
彼女がこんな陳述をして居たとき、若い弁護人は、片腹痛いことに思つた。彼女は何ものだ。何の理解があると云ふのだ。云はでものことを云ひふらし、書かでものことを書き散らし、警察の厳重なる取締を受けなければならなくなつて、無暗と神経を昂らせ、反抗的気分を増進させ、とどのつまりは此の如き犯罪を計画した。それが何の犠牲者である、何の栄誉と尊敬とが報いられる。元来当局者の騒ぎ方からして仰々しい。今にも国家の破壊が行はれるかのやうに、被告が往返する通路には、五歩に一人宛の警官を配置する。憲兵で裁判所を警戒する。裁判官、弁護人にも護衛を附す。こんなことは、彼女等をして益々得意にならせる許りである。革命の先覚者たるかの如くに振舞ふ彼女の暴状を見よ、苦《にがにが》しいことだ。
「私は一つお願があります。」彼女は尚饒舌をやめない。
「私はもう覚悟して居ます。此計画を企てた最初から覚悟して居ます。どんな重い罪科《おしおき》になつてもちつとも不満はありません。けれども私以外の多数の人々です。この人達は私共とは何の関係もありません。こんな犯罪計画は多人数を語つて居ては、とても成就することが出来ないものだと、最初から私は気付いて居ました。ほんの四人つ切りの企です。四人つ切りの犯罪です。それを沢山の連累者があるかの様に、検事廷でも予審でもお調べをなされました。それは、全く誤解です。その誤解の為、どれ丈け多数の方々が苦しみましたか、貴方方ももう御存じでいらつしやいます。此人達には年|老《と》つた親もあり、幼い子供もあり、若い妻もあります。何も知らない事でもし殺されると云ふやうなことになりましたら、本人の悲惨は固より、肉親や知友もどれ丈けお上をお怨み致しませうか。私共がこんな計画を企てたばつかりに、罪のない人が殺される。そんな、不都合な結果を見るやうになりますと、私は……。私は……死んでも……死んで死にきれません……」
彼女は段々に胸が迫つて来た。涙が交つて声は聞取れなくなつた。
若い弁護人も、彼女の此陳述には共鳴を感じた。いかにも女の美しい同情が籠つてゐると思つた。人間の誠が閃いてゐるとも思つた。本統に彼女の云ふことを採上げて貰ひたいと、彼自も判官の前に身を投掛けて哀訴して見たいとも思つた。
それもこれももう無駄になつた。彼女の顔を見たとき弁護人は刹那にその当時の光景を思起したのであつた。
彼女は美しい容貌ではない。たゞ口許に人を魅する力が籠つて居た。両頬の間はかなりに広く、鼻は低くかつた。頬の色は紅色を潮していつも生々して居た。始終神経の昂奮がつゞいて居たせいかもしれない。或は持病であると云ふ肺結核患者の特徴が現れて居たのかも知れない。被告等も退廷するときになつた。彼女が一番先になつて法廷を出る順序となつてゐる。若い弁護人が彼に黙礼した後直に、彼女は椅子を離れた。手錠を箝められ、腰縄がつけられた。彼女は手錠の儘の手でかゞんで、編笠をとつた。ここを出てしまへば、彼等は再び顔を合すことが出来ないのである。永久の訣別である。彼女は心持背延をしてみんなの方
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