れてしまつて、身体は木の塊《ころ》のやうに投付けられ、僅か一坪半の平面だけが彼の足の踏処となつて居るに過ぎない。もし一歩でもこれから外へ踏出せば、大きな声にがなられ、撲られ、こづかれ、足蹴にされるのである。二言目には「死損奴」と。今も二人の警官が長いこと怒鳴散して行つた。その詞の中て、彼の鼓膜に響いたのは「死損の癖に」と云はれたそればかりであつた。
「本当に殺されるのであらう。」彼はかう思込むと涙が溢れた。頬を伝つて枕許へ落ちた。ぽとりぽとりと一つ/\寂しい音をして涙は落つるのであつた。
 友達の様な口吻で警吏は彼を彼の家に訪問し、そして有無を云はさず警察に引致した。事はそれから始まつたのである。之れまでとても彼は自由の尊さを知らない訳ではなかつた。生噛りの思想論を振廻して「人間の最も幸福と云ふことは絶対的に他より拘束せられざる生活より生ず」といふことなどを一つの信条であるかの如く云散らして居た。されどもそれは彼に取つては、空論であつた。長押《なげし》の額面の文字を眺めて居る位の感じで、自由と云ふ文字を遠くに置いて之を※[#「りっしんべん+尚」、第3水準1−84−54]悦《しようきよう》して居たのである。今はそれが現実となつた。自分の身に降りかゝつた絶対の拘束は、一足飛に彼と「自由」との間の間隔を狭めてしまつて、極めて密着した関係に於て彼は自由の耽美者、慾望者、希求者とならねばならなくなつた。先刻も審問場に於て、彼は長時間の起立から許されることを絶大の幸福であると思ふ迄に、彼は些の自由にも無限の価値を感じたのであつた。一突ついたならぼろ/\と崩れさうなやさがたなこの壁、此扉。それでも彼には鋼鉄で鋳上げた一大鉄爐の四壁にも均しいものである。土、釘、木片といふ物質は彼の腕力で或は粉々になつてしまふかもしれないが、それを組立てて居る無形の威力――即ち国家の権力は、彼が満身の智慧、満身の精神を以てしても、到底破却することが出来ない。彼が国家を呪ひ権力を無にし、社会を覆さうとする間は、彼は彼の自由のすべてを捕はれなければならない。更に進んでは、彼の存在そのものをも非認せられなければならない。
 しかも彼は自ら此の如くに憎悪され、嫌忌され、害物視される筈がないと思つて居た。それで今彼が、一身を置くべき場所をだに与へられず、一指を動すべき活動をだに許されないと云ふことが、決して正当なる権力の用方ではないと思ふのであつた。斯様にして権力の濫用を恣にする政治家は、事の真偽、理の当否を調査することなしに、只一概に大掴に、否むしろ虚を実と誣ひ、直と曲を邪み、何でもかでも思想の向上、流布を妨止するのであるとも思はざるを得なかつた。
 彼は忿然として此圧力に反抗しなければならないといきまいた。自分が斯うして牢獄の苦を嘗めて居ることはむしろ誇るべきことなのではあるまいか。かう思つて来て彼は心の緊張を知覚した。
 俺は志士となつた。思想家として扱はれて居る。頑冥なる守旧家の手によつて捧げらる新社会の祭壇の前の俺は犠牲だ。俺の犯罪の性質は之を天下に公言することが出来る。俺の犯罪は、俺の個人的利害、職業、感情、乃至財産との関係ではない。俺の主義、俺の思想、俺の公憤と犯罪との関係である。彼等に忌れ、憚られ、恐れられる丈それだけ、俺は名誉の戦士として厚く待遇せらるる訳だ。俺の肉体は呵責をうける。或は傷つき或は※[#「爿+戈」、第4水準2−12−83]《そこな》はれるであらう。けれども俺の心霊は何ものゝ暴力に抗ひても。安らかに平和に宏大に活きて居ることが出来る。正義の上に刑罰の笞《しもと》の下つた例は、古今を通じて東西に亙りて、何時の時代にもどんな処にでも起つたこと、起り得ることである。笑つて笞を受けた囚人は、後には泣いて追慕の涙に滲んだ弔詞を受ける先覚者である。俺もさうだ、今にさうなる……。
 女々しい涙を揮払つて彼は起上らうとした。手の自由が利かないので、一寸起つことが出来ない。やけに手錠を外して了はうとして、両足をかけてぐつと押した。手首よりも掌は勿論大きい。そんなことで手錠が外れさうのことはない。押した力で手錠の鉄が彼の肉や骨に喰入るやうに痛むのであつた。「ああ」彼はぐつたりと又倒れてしまつた。
 彼が東京へ護送せらるゝ為梅田の停車場から汽車にのつたのは、それから二日後の事であつた。
「私はとても助からないと思ひました。汽車に乗つてからも、死んで了ふと覚悟しました。窓の側に坐つて外を見てゐますと、すつかり日はくれて、外は真暗です。飛びおりてしまへばすぐに死ねるんだと思つても、いざとなると一寸思切が出来ないでゐるうちに、汽車はどん/\進行して行きます。愚図愚図して居ると機会がなくなつて了ふと思つて気がわく/\します。どうもいゝきつかけがありません。すると私は自分の懐中に少許りの小遣銭が残つて居るのを思出しました。へい一円六十五銭程でした。どうせ死ぬなら、之で甘いものを食つてからにしよう……」
 たどたどしいものゝ云方で彼は喋続けて来た。
其話の道行が風変りなので、法官も弁護人も共同被告も、ゆるやかな心持ちになつて之を聞いて居た。[#改行天付きはママ]人が今死ぬる覚悟をしたと云ふ悲惨な物語を聞いてるとは思はれない程、それが可笑味を帯びたものであつた。しかし本人自らはどこまでも真面目である。
「それから警官に願つて、洋食を買ひました。米原であつたと思ひます。私は洋食をすつかり食べてしまひましたが、どうせ死ぬなら急《せ》くことはないと思ひました。」
 誰だかこつそり笑声をもらしたものがあつた。
「大阪ではあんなに厳しかつたが、東京へ行つたら、ちつたあ模様が違ふかもしれない。その様子によつて覚悟しても遅くはない。私はかう思ひまして死ぬのは見合せました。
 東京へ来て見ると、やつぱり厳しい。むしろ大阪よりも一層厳重なお調です。もうだめだ、とても助からない。死ぬのはこゝだ……。へい、全くです。私は……」
 彼は法官席を見上げた。そして裁判長がそれ程感動したらしくも見えない顔付であるのを見て取つて、彼は躍起となつた。
「決して嘘ぢやありません。私は本統に死ぬ積りでした。兵児帯で首を……。首を……」
 彼はどうにかして自己の陳述に確実性を与へたいと思つた。後の方を振り返へると、看守長の宮部と云ふ人が、被告席の一番後の片隅に椅子に凭つてゐるのを見付けた。彼はその看守長を指さし乍ら、
「あの、あの方でした。看守長さん……、宮部さんでした。ねえ。」
 彼は看守長を証人にしようと思つた。宮部さんは仕方なしに首を上げて被告の後向になつた顔と自分の顔とを見合せて、「お前の云ふ通りだ」といふ暗示をした。
「貴方がとめて下さいました。私が首を……。首をやつてしまはうと云ふとき……。実に其時は危機一発でしたねえ。」
 先程から忍んで居た笑が一同の頬に上つた。彼の調子外れの声が、「実に危機一発でしたねえ」と云つたとき、誰も誰も其容貌の厳格さを保つて居ることが出来なかつた。さすがの裁判長の目許にも愛嬌が見えた。
「これはどう云ふ風に考ふべきであらうか。」若い弁護人はかう思つて黙想した。
 彼は最も多く死を怖れる。しかし彼の恐怖は死其ものに対してゞはない。死に至るまで持続せられて行く生に対する脅しを恐れたのである。殺されると云ふそのことが彼には堪へ難い惨苦を想はせたのである。殺されることなら一層自ら死なう。それが無造作な彼の覚悟であつた。その覚悟が出来たのちも彼は尚口舌の慾を貪ることを忘れはしなかつたのである。之を以て彼は生を愛したものだとも云得るかもしれないが、むしろ之は、彼が死そのものを真に求めて居るのでもなく、又死そのものを真に恐れて居るのでもないと云ふ方に解したらよからう。それ故彼は洋食を食つて十分食慾を充たし得たとき死と云ふことから全く離れてしまつたではないか。東京の模様によつては必ずしも死なずにすむかもしれないと考へた。即ち彼の生に対する脅かしさへなくなれば、彼は死ぬほどのことはないとも思つた。生の執着からでもなく、死の恐怖からでもなく、只目前の苦痛が彼を、いろ/\に煩悶させたに過ぎない。死んでしまつた方が楽でありさうだから死ぬ。もしそれよりも楽なことがあればその方法を採らう。何れにしろ今の苦艱から免れたい。彼は頗る単純に考へたにとゞまる。彼が二度目の自殺を企てたとき看守長の為にとめられた。此障礙は寔に偶然のことである、彼はこの偶然の障礙を呪はうともせず、又此偶然さへなくば自分はもう死んで居たのであると云ふ苦悶をも考へずに、彼は、「危機一発」であつたと只思つたに過ぎない。彼から見れば、死も生も同一の事の様にも取扱はれてるらしい。彼は第三者の地位に立ちて自己の自殺を客観して語ることが出来る。何もかもすつかり超越してゐるとも見える。「死と生とは天才にとつては同じことだ」と云つた杜翁《とをう》の言を以てすれば、彼も天才であると云はなければならない。若い弁護人は今更らしい真理の発見者であるかの如く心に微笑した。
     *      *      *
 時は明治ヽヽ年ヽ月ヽヽ日、一代の耳目を聳動せしめた。某犯罪事件の判決の言渡のある日である。開廷数時間前既に傍聴席は満員となつた。傍聴人は何れも血気盛んな、見るから頑丈な、腕つぷしの強さうな人のみであつた。何しろ厳冬の払暁に寝床を刎起きて、高台から吹きなぐる日比谷ヶ原の凍つた風に吹き曝され、二時間も三時間も立明し、狭い鉄門の口から押合ひへし合つて、やつと入廷が出来るといふ騒ぎだから並一通りの体格の人では、とても傍聴の目的を達することが出来ないのである。其多くは学生の装《みなり》をして居た。労働者らしい人も多かつた。牛込の富久町から日比谷にかけての道筋、裁判所の構内には沢山の警官が配置され、赤い帽子の憲兵の姿も交つてゐた。入場者は一一誰何され、携帯品《もちもの》の取調をも受けた。一挺の鉛筆削でも容赦なく留置された。法廷内は殊に厳重であつた。被告一人に一人宛の看守が附いて被告と被告との間には一人宛必ず挾《はさま》つて腰を掛けて居た。裁判官、検察官、書記が着席し、弁護人も列席して法廷は正しく構成された。
 裁判長は、判決文の朗読に取掛つた。主文は跡廻しにして、理由から先づ始めた。
 判決の理由は長い長いものであつた。
 裁判長の音声は、雑音で、低調で平板である。
 五六行読進んだときに、若い弁護人は早くも最後の断案を推想した。
「みんな死刑にする積りだな。」彼はかう思つて独り黯然とした。
 今や被告人の脳中には大なる混乱が起つた。苛立しい中に生ずる倦怠。強ひて圧し殺した呼吸遣、噛みしめた唾《つば》、罪悪とは思ふことの出来ない罪悪の存在に関する疑惑。剥取られた自由に対する呪咀。圧迫に堪切れなかつた心弱さ。ヽヽを以てする陥穽の威力。不思議な成行きに駭く胸。爆せざる弾の行方。無意義な文字が示したと云ふ有意義の効果。あらゆる情緒、あらゆる想像、あらゆる予望が、代る/″\彼等の目の前に去来した。それも僅か十分か十五分の後は、一切が鉄案となることが前提されて居るだけ、それだけ彼等の神経は昂奮もし、敏感にもなつて居たのであつた。
 たうとう朗読は終つた。何が説明されてあつたかと云ふことについては、誰しも深い注意を与へなかつた。人は只決論[#「決論」に「(ママ)」の注記]を聞かんことを急いで居たからである。
 主文の言渡に移つた。裁判長は一段と威容を改めた。声も少し張上げられた。
 嗚呼。死刑! 三人を除いた外の二十幾人は悉く死刑。結論は斯の如く無造作であつた。
 主文を読終ると裁判官が椅子を離れるとの間は、数へることも出来ない短い時間であつた。逃ぐるが如しと云ふ形容詞はここに用ゐることは出来ないが、その迅速さは殆ど逃ぐるが如しとでも云ひたいのであつた。もとより慌てた様はなかつた。取乱したところも見えなかつた。判官としての威厳と落着とは十分に保たれながらも、何にしても早いものであつた。嘗て控訴院の法廷にかういふことが起つた。強盗殺人かの兇暴な被告であ
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