来なかつた。段々夜は更けた。見張りの人が眠げに片方に腰をかけて居る丈で、外に人はない、もし彼に逃亡を企つる勇気があつたなら、こんないゝ機会は又とないのであつたが、彼にはそんな呑気な――今の彼として実際それが呑気な事であつた――計画を考へてる遑がなかつた。掛りの人が席を引くときに、しばらく控へて居ろと云はれた詞の中に、腰を下ろしてもいゝと云ふ許しも出たかの様に思はれたが、もし不謹慎だといつて叱られやしないかと思へば、やはり立つて居なくてはならなかつた。足はもう感覚もないやうになつた。上半身がどれだけ重いのであらうとばかり感ぜられた。頭はもんもんして手の中は熱い。一方の脚を少しあげて、一方の脚だけに全身を支へて見る。楽になつたと思ふのは一分間とも続かない。こんどは脚をかへて見る。やはり一分間ともならないうちに支へた方のみが重みに堪へない。歩いて見たらいくらか苦しみが減るかもしれない。歩いて見たい。彼は思切つて左の足を持ち上げた。見張の人は一心に彼を見つめてゐる。ぎよつとして彼は又姿勢をとつた。何か複雑な事を考へ出して、それに全精神を集めたなら、少しはまぎれることもあらうかと思つた。けれども彼は何を考へることも出来なかつた。全く頭が空虚になつた。雑念《ざつねん》と云ふものは何処へか追払はれたらしい。考へれば考へるほど、腰が下して見たくなる。長々と寝そべつて見たくなる。世界中の最も幸福なものは、寝床の上に伸々と横はることであるとしか思はれなかつた。彼はただそれをのみ希つた。
彼は公判廷に於ける彼の訊問の時、極めて冗漫なる詞を以て、その当時のことを陳述し、自己の自白が真実でないことを、思切り悪く繰り返した。しまひにはおろ/\声になつて居た。それ故彼が他人の陳述を聞いて居て、堪へ切れずに泣いた所因《いはれ》を、若い弁護人はすぐに悟ることが出来た。「何という惨ましい事であらう。」
若い弁護人は竊に心を悼ましめて居た。[#改行天付きはママ]
裁判長は一度途切れた訊問を、彼の泣き声の跡から進行さすことを忘れはしなかつた。強ひて平調を装ふと云ふ様子が見えるのでもなかつた。
此被告については、語るべきことが頗る多い。彼はその陳述の最後にかう云ふことを云つた。彼は少しくどもりであつた。陳述はとかく本筋を外れて傍道へ進みたがるので、流石の裁判長も一二度は注意を与へた。其度毎におど/\し乍ら又しても枝葉のことにのみ詞を費した。やう/\事実の押問答が済む頃になると、彼は次の様なことを陳述した。
彼の云ふ処によると彼の自白は全く真実でない。元来彼は無政府主義者でない。只真似をしたい許りに大言激語を放つて居たにすぎない。突然拘留の身となつて、激しい取調を受けた。もう裁判もなしに殺されることだと思つた。大阪から東京へ送られる途中で、彼は自殺をしようと思つた。大阪を立つた時にはもう日がくれて居た。街々には沢山の燈がともされて居た。梅田では三方四方から投げかける電燈や瓦斯の火が昼の様に明るかつた。二人の護送官に前後を擁せられ、彼は腰縄をさへうたれてとぼ/\と歩いて来た。住慣れた大阪の市街が全く知らぬ他国の都会の様に、彼には外々《よそよそ》しく感ぜられた。自分はいま土の中からでも湧いて出て、どこと云ふ宛もなくうろつき廻つてゐる世界の孤児のやうにも思はれる。無暗に心細さが身にしむのであつたが、それかと云つて、何が懐しいのか、何が残多いか、具体的に彼の心を引留めると云ふやうなものもなかつた。今大阪を離れては二度帰つて来られないかもしれないと思つても、それがどれほど悲しい情緒を呼び起すのでもない。ある程度以上の感情は悉く活動を休止したのではあるまいかとさへ思はれた。無意識に歩いて無意識に停車場にはいつた。宵の口であるから構内は右往左往に人が入乱れて、目まぐるしさに、彼の頭は掻乱され、何もかも忘れてしまひたい様な気がして片隅のベンチに彼は腰を下した。眼蓋をあけて居るのが大儀[#「大儀」は底本では「太儀」]にも思はれたが、人がどんな目付をして自分を見てゐるであらうかと云ふ邪《ひが》みが先になつて、彼は四辺《あたり》に注意を配ることを怠ることが出来なかつた。見よ、大勢の旅客の視線が悉く彼一人の左右に、蒐《あつま》つて居るではないか。中には、彼の側近く寄つて来て彼の顔を覗いて行く無遠慮ものさへあるではないか。「縄がついてるからなあ。」彼はかう思つて、強ひて肩を狭ばめて小さくなつた。
思へば奇《くす》しき成行であつた。彼は今、天人共に容《ゆる》さざるる、罪の犯人として遠く東京へ送られるのである。やがては死刑を宣告されて、絞首台の露ともなることであらう。之が彼の本意であつたか、どうであらう。彼は嘗て牢獄に行くことを一つの栄誉とも思ひ、勇士が戦場に赴くが如き勇しさを想見したこともあつた。しかしそれは新聞紙法違反位の軽罪で、二三ヶ月の拘禁を受ける位の程度を考へたからのことであつた。然るに極重悪の罪名を負《おは》せられ、夜を日に継ぐ厳しい訊問を続けられ、果ては死を以て罪を天下に謝さなければならないと云ふ、そんな大胆な覚悟は、彼が心中には未だ嘗て芽を吹かうともしたことはないのであつた。
彼が訊問に疲れ、棒立ちになつてゐる苦痛に堪ヘずして昏倒した後、考がこの不可測な起因、経過、終局に及んだとき、彼は逆上せんばかりに煩悶した。それは夜も深更であつた。昼からかけての心の顫《ふるへ》は漸く薄らいだが恐怖は却つてはつきりした知覚を以て彼を脅《おどか》した。彼が拘禁された留置場は三畳の独房であつた。戸口が一つあるきりで四方は天井の高い壁で囲つてある。息抜きの窓が奥の方の手も届かない処に切られてあるが、夜は戸をしめてしまふ。黴と湿気と挨の臭がごつちやになつた、異様に臭さい部屋である。六月の末でもあるから莚の様な蒲団もさほど苦にもならず、いろ/\の悲しみ、歎き、憤りを載せて、幾十百人の惨苦の夢を結ばせた、其の堅い蒲団の上に彼も亦其身を横へて居るのであるが、一度去つた眠りは容易に戻つては来なかつた。機械のうなりが耳の傍近くに迫つて聞えるやうな、押付けられた気分が段々に募つて来る。今はかうして手足を伸ばして寝て居るんだが、明日の朝になつたら俺はどうなるのであらう。手錠、腰縄、審問場、捜査官。そして激しい訊問。厳しい糾弾。長時間の起立。何たる恐しい事であらう。
一体俺は志士でも思想家でもないんだ。俺は一度だつて犠牲者となる覚悟をもつたことがない。革命と云ふやうなことは、俺とは関係のない外の勇しい人のする役目なんだ。遠くからそれを眺めて囃したてゝ居れば、それで俺の役目はすむ訳だ。俺は一体何を企てたと云ふのであらう。一時の勢にかられたときは、随分|飛放《とつぱな》れた言動もしないではなかつたが、それは一時の興である。興がさめたときは、俺は只の三村保三郎である。臆病な、気の弱い、箸にも棒にもかゝらぬやくざものだ。
俺の様なものを引張つて、志士らしく、思想家らしく取扱はうとする当局者の気が知れない。けれども当局者はどこまでも俺の犯罪を迫及する、俺は助からぬかも知れない。殺されることがもう予定されてるのかも知れない。こんな臭い部屋へ抛りこんで現責《うつつぜめ》とやらで俺の口供を強ひても要求するやうでは俺はとても我慢しきれない。どうせ殺されるなら、勝手に調書をお作りなさいと云つて了つた方がいいかも知れない。
彼は出来るだけ恐怖の心から逃れたいと思つた。それにはどう云ふ風にしたがよいのであらう。眠るのが一番に賢いことである。さもなくば、殺されることなどは決してないと決定をつけるか。死ぬとなつて見て何が悲しいかと自ら諦めをつけるかの二つしかないのである。到底眠ることは出来ない。それなら殺される様に事件が成行くまいと云ふ予定が出来得ようか。此予定をつけるには此先幾多の糾弾の惨苦に堪へ得なければならない。さらば死を決して了へるか。こんな大きな、神秘な問題は彼に解決のつくべき筈がない。生か、死か、自由か、強情か。彼は縺れかゝつた絲巻の端をさがさなければならないと思つて、気を平にしようと努めた。群がる雑念は彼の努力を攪乱した。一層のいらだたしさが彼の頭の中を駈けまはりはじめたのであつた。彼はしばらく瞑想して見たが、とても堪へ切れなくなつて、そつと眼蓋を上げて四辺を見廻した。部屋は依然として真暗である。先刻《さつき》眠からさめた時のことを思へば、いくらか明みがましたとも見えるが、それは彼の瞳が闇になれたからなのである。彼は暗を透してそこに何ものかを見出し、此無限の苦悶を紛らさうと思つた。何もない。壁と柱。扉の外に窓が一つある丈である。彼はほんのりと白い窓の障子に眼の焦点を集めた。何と云ふことなしにぢつとそれを見つめて居た。暫くすると窓がする/\と開いた。人の口のやうにかつきりと穴があいた。精一杯に押ひろげけ、から/\と笑つてゐる大きな人の口とも見えた。
「おや」彼は不思議に思つて、眼を拭つて見直した。窓はやつぱり窓の儘である。ぞつとして彼は俯伏《うつぶし》になつた。そして蒲団を頭から被つた。動悸が激しくし出して、冷い汗さへ肌ににじんだ。彼は死の怖しさよりも今夜の今が怖しくなつた。
「誰かに来て貰ひたい。」彼は一心にかう思つた。
彼は起き上つて戸を叩いた。どん/\叩いた。何か変事が起つたかと思はせるには此の上の方法はないのであつた。果して慌たゞしい物音がした。四つの乱れた靴の音と、佩劔の音とであつた。僅かの時間の間に戸の外にもの云ふ高い濁音までがして来た。彼はふら/\し乍らも戸の側に身を寄せて、錠の明くのを待ち構へて居た。
具合の悪い錠をこぢあける音がしてやがて戸が開いた。白服の警官が二人で、一人は提燈をかざして居つた。
「どうしたんだ。」尖つた声で一人がわめいた。彼は何事も耳にはいらない。只恐しいこの暗黒から、人の声と、火の光がして来たのを堪らず嬉しいと思つた。早くこの部屋から身をぬけ出したいと云ふ一念で、彼は戸のあくのを遅しと閾外《しきゐそと》へ飛び出した。もとよりどこへ行かうと云ふ宛などあるのではなかつた。
「こらつ。」警官は怒鳴つた。そして彼の襟がみをむづと引掴んだ。
「何をするんだ。」も一人の警官は提燈を抛り出して彼の前面に立ちはだかつた。
「生意気な真似をしやがるんだい。」
太い拳が彼の頭の上にふつて来た。背中の辺りを骨も挫けとばかりにどやされた。彼は一たまりもなく地上《ぢべた》に倒れた。
荒狂ふ嵐の前には彼は羽掻を蔵めた小雀であつた。籠から逃げようとは少しも考へては居なかつた。哀れむべき小雀は魂も消える許りに打倒れて、一言の弁解さへ口から出なかつた。誤解ではあるが、警官の方でも一時は肝を潰したのであつた。大切の召取人として彼等は厳重に監守する責任を負はされて居た。それか仮令百歩に足らぬ距離をでも、逃亡したとなれば、役目の上、疎虞懈怠《そぐかいたい》となる。昼の疲もあり、蒸々する晩でもあり、不寝番の控室てはとろとろと仮寝《うたたね》の鼾も出ようと云ふ真夜中に、けたゝましいもの音、やにはに飛出した囚人。怪しいと思ふよりも驚きに、驚きといふよりもむしろ怒に心の調子が昂つたのは蓋当然の事であつた。
彼は再び独房へ押込められた。新に手錠をさへ嵌められた。起上り小法師をころがす様に、手のない人形は横倒しにされた。撲たれた痕の痛みはまたづき/\する。臂頭の辺は擦剥いたらしく、しく/\した痛を感ずるとともに、いくらか血も出た容子であつたが、手がきかないのでどうすることも出来なかつた。警官は叱責《こごと》やら、訓戒やらをがみ/\喚いて、やがて行つてしまつた。戸はばたりと閉つて、錠《ぢやう》かぴんと下された。開かれるときは此後永久に来ないかのやうに、堅い厳しい戸締の音が、囚人の頭に響いた。しかし今の動揺の為部屋中の空気は生々した。重い、沈んだ、真黒な気分がいくらか引立つて来た。彼は「夜の恐怖」からすつかり脱け出ることが出来たのであつた。それと同時に彼は自らを顧みた。さうして彼の惨めさを思つた。両手は括ら
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