を見た。彼女の顔は輝しく光つた。すきとほつた声で彼女は呼《よ》んだ。
「皆さん左様なら。」云ひさま彼は笠で顔を蔽うた。すたすたと廷外へ小走りに走り出でた。
 彼女の最後の一語が全被告の反抗的気分をそゝつた。
「ヽヽヽヽヽヽ。」
 第一声は被告三村保三郎より放たれ全被告一同之に和した。
「ヽヽヽヽヽヽ。」
 若い弁護人は耳許から突然《だしぬけ》に、喚呼の声を聞かされて、一時は呆気にとられて居た。
 けれども之をもつて、彼等が真にヽヽヽ主義に殉ずるの声とは聞くべからざるものであつた。此叫声が彼等の信念から生れたものであると誤信する者は、此犯罪事件が彼等の信念から企画されたと誤信すると同じ間違を来たすであらう。彼等は判決に不服であつた。事情の相違、酌量《しやくりやう》の余地を全然無視した判決を彼等は呪つた。その不平の声の突発が即ち「ヽヽヽヽヽヽ」となつたのである。
 若い弁護人は確に斯の如くであると解釈して自分の担任する被告の方を見た。その一人の如きは丸で悄然《しよげ》かへつて居る。とぼ/\して足許も危な相に見える。若い弁護人は第二列目と三列目との間の通路に身を置いて、自分の目の前を横切つて、廷外に出でようとする二人の被告の耳許に口を寄せた。
「落付いていろ。世の中は判決ばかりぢやないんだから。」
 彼はかう云つて、此詞の意味が被告等に理解されたらしいのを見て、少しく安心した。
「いゝえ。もうどうなるもんですか。」
 荒々しい調子で彼の詞を打消しつゝ通りすぎたものがあつた。見ると柿色の囚人服を着た外山直堂であつた。
 此者は僧侶で、秘密出版事件で服役中、此事件に連座したのである。彼の法廷にありての、言語動作は終始捨ばちであつた。訊問の際職業を問はれたとき
「ヽヽ宗の僧侶でありましたが、此度の事件で僧籍を剥奪されました。私は喜んで之を受けました。」と答へて新聞種を作つた男である。
「あゝ、救ふべからざる人間だ。彼は全く継子根性になつてしまつた。」若い弁護人は、殊更に気丈さを装ふらしき此男の囚人姿を目送した。
 弁護人控所は人いきれのする程、混雑して居た。どの顔にもどの顔にも不安と、驚きと、尖つた感情の色が浮んで居た。
「みんな死刑つて云ふことはないや。」
「検事の論告よりも酷い裁判だ。」
「本気なんだらうか。」
「なに。万歳を叫んだ。ヽヽヽの。」
「秋山も叫んださうだ。」
「あんまり云はん方がいゝぞ。」
 若い弁護人は自分の担任した被告の妻と妹とに判決の結果を通知する電報を認めなければならなかつたが、こんなごたついて居る処では、それを認める余席もないと思つて、廊下へ出た。身を切る様な冷たい風が大きな階段の口から彼の熱した顔を吹きつけた。心持が晴々したやうに感じた。
「どうでした。」
 彼の肩をそつと押へたものがある。見るとヽヽ新聞の記者であつた。
「いや、どうも。」彼は成るべく会話を避けようとしたが、記者は畳みかけて問出した。
「あの通り執行する積りでせうか。」
「えゝ。」彼が問の意味を解しなかつたと見て取つて記者は註釈を加へた。
「判決通り、みんな死刑にするんでせうか。」
「それは勿論さ。」彼は腹立しげにかう答へた。
「だつてあんまり酷いぢやありませんか。」と記者は云つた。此時彼は鋭い論理を頭に組上げて居たが、それが出来るとすぐ記者に向つて反問した。
「この判決には上訴を許されないんだぜ。一審にして終審なんだ。言渡と同時に確定するんだ。確定した判決は当然執行さるべきものである。君はどう思ふ。」
「それは無論さうです。ですが……。」
「執行されないかも知れないつて云ふのか。君は、判決の効力に疑をもつてゐるんだね。」
「疑を持つてるつて云ふ訳ではないんですが……。」
「いや疑つてる。」彼は相手を押へ付けて、
「判決通り死刑を執行するだらうかと云ふ疑問が出る以上は、本気になつて言渡した判決であらうかと云ふ懸念が君にも潜在して居るんだ。かうして判決はして置くが、此判決の儘には執行されないだらうと、裁判官|自《みづから》がある予想を打算して居たんだと云ふ疑惑が、続いて起つて来べき筈だ。君の疑問を推論して行けばだね。」
「いかにもさうなつて行きます。」
「よろしい。要之威信のない判決だと云ふことになる。司法権の堕落だ。」
 終りの方は独語の様に云放つて、彼は忙しげに階段を下りて構内の電信取扱所へ行つた。頼信紙をとつて、彼は先づ、
「シケイヲセンコクサレタ」と書いた。けれども彼はこれ丈では物足らなさを感じた。受取つた被告の家族が、どんなに絶望するであらうと想ひやつた。
「構ふものか。」彼は決然として次の如く書加へた。
「シカシキヅカイスルナ。」
 彼は書終つて心で叫んだ。
「俺は判決の威信を蔑視した第一の人である。」
[#地から1字上げ](大正二・七・一七 稿了/「太陽」 −九巻一二号/
大正二・九)



底本:「定本 平出修集」春秋社
   1965(昭和40)年6月15日発行
※底本は、著者によるルビをカタカナで、編者によるルビをひらがなで表示してありますが、このファイルでは、編者によるルビは略し、著者によるルビをひらがなに改めて入力しました。
※底本で伏せ字用記号として使われている「ゴマ」(JIS X 0213、1−3−30)は、「ヽ」に置き換えました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※作品末の執筆時期、初出、初収録本などに関する情報は、底本では、「/」にあたる箇所で改行された3行を、丸括弧で挟んで組んであります。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたつたのは、ボランティアの皆さんです。
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