法。然らざる時は、判官諸公も即ち人である。人としての諸公が、人としての死刑囚に対したとき、その顔を見るに堪へずとして、自らの顔を背け、寸時もその席にある能はざるの態を示して、出来得るだけ迅速に、しかも威容を乱さずして、その席を退かれたこと、之れ人情の真の流露と見るべきではあるまいか。
若い弁護人は斯の如く推断して、善意を以つて判官諸公を見送つた。
傍聴人は最初より静粛であつた。宣告を聞いてからも、一語を発する者もなかつた。退場と云ふときにも、唯々として列を正して出てしまつた。固より自分一身に関係したことではない。彼等は自らの生活の為、泣き惑ひ、悶えあがきこそすれ、それがこの事件と何の連絡があらう。彼等は彼等の好奇心をさへ満足させればそれでいゝのである。法廷の状況、被告の顔付、新聞の号外よりはいくらか早く知ることの出来る判決の結果。それ等の希望は悉く達することが出来た以上に、彼等に何の慾求があらう。
被告銘々にそれ/″\酌量すべき情状がなかつたか。有つても之を判官が酌量しなかつたか。それは判官として正当な遣方であらうか。中心となるべき四五人の関係事実と、其他の多数者の関係事実とが、全くかけ離れて居るものを、必ず一つの主文にしてしまはなければならないと云ふ法則でもあるのであらうか。それよりももつと重大な影響――かくも容易に多数の死刑囚を出したことより生ずる重刑主義の影響が、国民の精神教育にどんな利弊を来たすであらうか。……之等幾多の疑惑は決して傍聴人には起らなかつた。文明の裁判制度と云ふものは斯程迄に国民の信頼を受けつゝあるのであつた。
若い弁護人は、目前に現はれた死刑の宜告の事実を打消すことは出来ない乍らも、之が真実の出来事であるとはどうしても思へなかつた。二十幾人が数日後に死ぬ。いやどうして死ぬものか。此矛盾した考の調和に苦んだ。忽ち一つの考が頭の中に閃いた、鳴呼、判官は深く考へてゐる。被告は決して殺されることはない。一審にして終審なる此判決は宣告とともに確定する。之を変改することは帝王の力でも為能はざる処である。死刑は即ち執行せられ、彼等はみんな殺される。けれども彼等は死《しな》ない。判決の変改は出来なくとも、その効果は或る方法によつては動かし得ないでもない。或方法……或方法……。
若い弁護人は自分の席を起つて、被告席の方へ足を運んだ。自分の担任した二人の被告にある注意を与へようと思つたが為であつた。其被告は犯罪の中心からは遠く離れて居たものであつた。予審及捜査に関する調書上の記述よりも、被告が法廷でした供述を重んずるといふ主義の裁判官であるならば、彼等は当然無罪となるべきものであつた。少くとも不敬罪の最長期五年の科刑が適当のものであつた。何分にも今の裁判所では、予審及捜査に関する調書の証拠力に絶対の価値が附せられてある。事実の真相と云ふものは、検事及び予審判事が密行して調査した材料から組立てらるべきものであると信ぜられてある。調書は法律知識のある判検事が理詰《りづめ》で作上げたものであるから、前後一貫、些の矛盾や破綻を示さない。被告が公判に附せられたとき、被告の罪科は既に決定して動すべからざるものとなつて了つて居る。此意味に於て今の公判は予審の復習である。予審判事、検事が、極端に被告の自供を強要するの悪習は、この調書に絶対の証拠力を附すと云ふ公判判事の無識、無定見から由来して居ると云つてもいゝ。此事件の如きは殊に調書の作成に苦心したらしかつた。一代を震骸すべき重大犯罪事件の調書として、其数頁を繰つたものは、誰でも被告の自白なるものが、絶倫なる記憶力と放胆なる蛮性からでなければ、決して供述することの出来ない事実の供述から出来上つて居ることを看出し得たであらう。火を放つて富豪を劫掠しようと企てたとか、電気を東京全市に通じて一夜に市民を焚殺する積りであつたとか、聞くだに戦慄すべき犯罪計画を極めて易々と喋散して居る。斯の様な調書が存在して居て、それが裁判所の証拠資料の唯一無二なるものであるとすれば、被告はどこにも逃るゝ途はない。若い弁護人は、其担任に係る被告人に対して何時も気休めを云つたことはなかつた。彼等が無罪を信じ、軽い処刑を信じて居たときも、弁護人は常に首を振つた。
「そんな勇気のある裁判官は無いからなあ。」
しかし彼とても時々もしやと云ふ考を起さなかつた訳ではない。もし裁判官に、洞察の明と、果断の勇とがあるならば……、もしその明と勇とがあるならば……。被告等は無罪となるかも知れない。かう思つて終始法廷の模様に注意した。被告等の公判に於ける陳述を聞いて居ると、どうやら楽観的の気分にもなつて、之れなら大丈夫かも知れないと心に喜悦を感じて法廷を出る。が、家へ帰つて調書を翻へすと、何たる恐ろしき罪案ぞ、之れでは到底助か
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