逆徒
平出修
−−−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)約《つづ》めて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)随分|飛放《とつぱな》れた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+尚」、第3水準1−84−54]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ばら/\になつて
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
ヽ:伏せ字
(例)ヽヽヽヽヽの奮闘は
−−−−
判決の理由は長い長いものであつた。それもその筈であつた。之を約《つづ》めてしまへば僅か四人か五人かの犯罪事案である。共謀で或る一つの目的に向つて計画した事案と見るならば、むしろこの少数に対する裁判と、その余の多数者に対する裁判とを別々に処理するのが適当であつたかもしれない。否その如く引離すのが事実の真実を闡明にし得たのであつたらう。三十人に近い被告が、ばら/\になつて思念し行動した個々の犯罪事実を連絡のあるもの、統一のあるものにして了はうとするには、どこにか総括すべき楔点を先づ看出さなければならない。最も近い事実を基点とし、逆に溯りて其関係を繹《たづ》ね系統を調べて、進んで行つた結果は、二ヶ年も前の或る出来事に一切の事案の発端を結びつけなければならなかつた。首謀者は秋山亨一であると最初に認定を置いて、彼が九州の某、紀州の某に或ることを囁いたのがそも/\の起因である。それから某は九州に某は大阪及紀州に、亨一は又被告人中に唯一人交つて居る婦人の真野すゞ子に、それから一切の被告に行き亘つて話合したと云ふ荒筋が出来上つた。一寸聞けば全くかけ放れた事実であるかの様にも思はれる極めて遠い事実から段々近く狭く限つて来て、刑法の適用をなし得る程度に拵上げ、取纏め引きしめて来るまでの叙述は、あの窮屈な文章の作成と共に、どれ丈けの骨折が費されたであらう。想ひやられる事であつた。裁判長はもう半白の老人である。学校を出るなりすぐに司法部にはいつて、三十年に近い春秋を迎へ且つ送つた人である。眼円に頬骨高く、顎の疎髯に聊かの威望を保たせてあるが、それ程に厳しい容貌ではない。といつて柔しみなどは目にも口元にも少しも見ることが出来ない。前後二十回に亙つて開かれた公判廷に於て彼はいつも同じ態度同じ語調で被告を訊問した。出来ることならどの被告に向つても同じ問を発し、同じ答を得たいものだと希望して居るかの様にも思はれた。被告が幾十人あらうとも事件は一つである。彼はかう思つて単位を事件そのものに置くらしく、被告個々の思想や感情や意志は彼に多くの注意を費さすことではないらしいのであつた。三角形の底辺には長さがある。しかし頂点は只点である。すべての犯罪事実を綜合し帰納して了へば、原因動機発端経過は一点に纏る。曰く責任能力ある人が為した不法行為。彼はこの結論に到着してしまへばそれで任務は済むと思つて、底辺の長さを縮むることにのみ考を集めて居る。膠《にべ》烽ネい、活気もない、艶も光もない渋紙色した彼の顔面に相当する彼の声は、常に雑音で低調で、平板である。彼が顔面に喜怒哀楽の表情が少しも現れないと等しく彼の声にも常に何等の高低はない。もし彼の顔面筋の運動から彼の心情を読むことが不可能であるとするならばそれは彼の声調に就いてゞも亦同じことが想はれる。之れ彼の稟性《うまれつき》であるのか将修養の結果であるか。何れにせよ、此点だけは裁判長としての得難き特長を具へて居ると云ふべきである。
彼は被告の陳情を一々聞取つた。云ひたいことがあるなら何事でも聞いてやらうと云つたやうな態度で、飽かず審問をつゞけた。之が被告をして殊の外喜ばしめた。之れなら本統の裁判が受けられると思つたものも多かつた。概して彼等は多くを云つた。某々四五人のものは、既に一身の運命の窮極を悟り、且つは共同の被告に累の及ばんことを慮りて、なるべく詞短に問に対する答をなした丈であつたが、之等は千万言を費しても動かすことの出来ない犯罪事実を自認して居たからである。反之大多数の被告は、拘引されたこと自体が全く意想外であつた。そして其罪名自体が更に更に意想外であつた。新聞紙法の掲載禁止命令は茲に威力を発揮して、秋山亨一、真野すゞ子、神谷太郎吉、古山貞雄等の拘留審問の事実を、一ヶ月余も社会へは洩さなかつた。内容は解らないが、由々しい犯罪事件が起つたと云ふことを聞いて、誰しもその詳細を知りたいと庶幾つた。一体何を為出来したのであらう。世人は均しくこの疑問に閉された。被告の大多数は実にこの世人と一様に、事件の真相を知らうと希望して居たものである。も少し分けて云へば、其中に又、全然秋山等拘
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