引事件をすら知らないものもあつた。それが自らの身の上に及んで来て、共犯者だと云はれて、否応《いなおう》なしに令状を執行されて、極重悪人の罪名を附せられた。呆気ないと云はうか、夢の如しと云はうか、馬鹿々々しいと云はうか。其後法廷に於て天日の下に手錠をとかれて、兎に角にも文明の形式を以て事実の真相を語ることの自由を与へられたとき、少しく冷静になつて追懐して見れば、余りに意気地のなかつた、余りに恐怖に過ぎた、余りに無人格的であつたことに気がつく。そして自分自らを批評して、心竊に嘲笑を思はざるを得なかつた。けれども夜陰捕吏の手に引きずられて、警察の留置場へ抛り込まれたときから、「手前達は、もう首がないんだ。どうせ殺されるのだ。」かう云ふ感じ、周囲の空気の中から、犇々と彼等の魂に絡みついてしまつて、全く絶望の気分に心神も喪失して居つた。朝から夜、夜から朝、引き続いた訊問は、忠良なる捜査官によつて、倶不戴天《ぐふたいてん》の敵なりとして続けられ、何月何日、某処に会合したその一人は既に斯の如き自白をして、汝もその時斯の如き言動をしたに相違がないと、其者は立派に陳述して居るではないか。彼等は誰でもこの方法によつて訊問を強ひられた。記憶の有無はもうその時の問題とはならない。
被告のうちに拘引当時軽からぬ腸加答児に罹つて居たものがあつた。二日半も食事を取らないでじつと寝てゐたのに、令状を執行せられた。東京より以西横浜、名古屋、大阪、神戸、それから紀州、ずつと飛んで熊本に亙つた犯跡の捜査に急《せは》しかつた捜査官は、多少の病体をも斟酌することなしに取調を進めなければならなかつた。病中の衰弱を憐まないと云ふのではないが此被告の審理は夜を通して続いた。昏憊と自棄とが彼をして強情と我慢とを失はせてしまつた。その時更に彼の心を惑乱させた一事を聞いた。兄なるものも同じく拘引されたと云ふ事である。もし自分の陳述の為方如何によつては兄も恐ろしき罪人となつてしまふかも知れない。兄は主義者ではない。何も知らない人だ。それが自分の縁に維《つな》がると云ふばつかりでひよつとした憂目に遇ふと云ふことは、自分の忍び得ない処である。兄を助けるには何事も只犠牲になる。彼が法廷に立つてこの状況を語つたとき、被告席から涕泣《すすりなき》の声がした。感極つて泣き落したのであらう。神聖にして厳粛なる法廷の空気は動いた。誰だ。どうしたのだ、銘々がかう思つてその声のする方に目を注いだ。感情の鋭い一人の若い弁護人は思はず腰を放して立ち上つた位であつた。けれども裁判長はちつとも顔色を動さなかつた。只ぎよろりと一睨した丈けであつた。
此の泣いた被告は三村保三郎と云つて大阪の住人であつた。開廷後二日目であつた。一同が席について裁判長が書類の頁を繰り返して居るときであつた。突然彼は
「裁判長殿」かう叫んだ。その調子があまりに突拍子もないので満廷のものは、少しく可笑味を感じ乍らも、彼が何の為に裁判長を呼び掛けたかを次の問によつて明にしようと思はぬものはなかつた。それから又第一回公判以来、被告等はすべて、恭順謹慎の態を示して、誰あつて面を上げて法官席をまともに見ようとするものはないのであつた。犯すべからざる森厳の威に恐れかしこまつて居ると云ふ有様であつた。然るに今此被告は頓興に裁判長を呼びかけた。之にも亦一同一種の興を覚えた。裁判長は黙つて被告を見て、ちよいと顎を動かした。それは「何だか、云つて見ろ。」かう云ふ詞の意味を示したものであつた。
「わ、わたしは耳が遠いんですが。どうも聞えなくつて困りますから……」
席を前の方へ移して貰ひたいと云ふのであつた。彼は自らの語るが如く耳が遠いのであつた。顔貌が何となく惘乎《ぼんやり》して、どこにか気の抜けた様な処が見えるのはその為であるらしい。早く父に分れて母の手一つに育つた。小商をして居る家の総領であつたが、大した学問のあるのではなく、思想上の研究なども行届いては無論居なかつた。奇矯の事を好み、自ら不平家らしく装つて、主義者の一人であるとして、多少の交友を得た。会合の席には常に法被腹掛の支度で行く。労働者だと云つて強がる為である相だ。「私が行つたとき五人程の人が集つて居ましたが、私の顔を見ると、みんなが黙つてしまひました。ええ、私はやつぱり法被をきて居ました。労働者の会合を料理屋で開くなんてけしからんと私は云つてやりました。けれど、そ、それは……実は私の癖なんです。どうもみんなが、私をのけ者にして居る様な様子ですから、私は独りで出てしまひました。」
彼は自ら語る如く主義者間にも余り信用されて居ない人間であつた。或は其筋からの目付かもしれないなどと云ふ疑もかゝつて居た。彼は同志の人々の思はくを薄々知つて居ながらも、其跡先にくつついて放れなかつた。意気地のな
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