度前後に上昇する。太平洋やオホツク海にあって年を経た春鰊は、その頃になると、大群をなして本島の西海岸さして「群来《くき》る」のだ。鰊に従って移動する鴎の群れがまずそれに先行する。空は連日乳白色にかきくもり、海の水は雄鰊の排出する白子のために米磨ぎ汁を流しこんだように青白色に濁ってくる。
 周旋屋の手を経て募集された漁夫たちが、津軽及道内の各地から全部あつまった夜、大丸の旦那の家の大広間では安着祝があった。
 正面の神棚には燈明が赤々とともっている。漁夫たちは真新しい青畳に気をかねながら、もり上った股をきちんと揃え、節くれ立った両手をその上において窮屈そうに坐った。仕事着のままのもあり、わざわざその日のために持って来たらしい小ざっぱりとした着物を着こんだのもいた。船頭、下船頭が上座にすわり、漁夫がそれにつづき、陸廻《ボエマワ》し、炊事夫《ナベ》が一番下座だった。漁夫たちはむっつりとふくれた顔をし、案外元気がなかった。
「前借りなんぼした?」
「うん、……八十両よ。あと十両しかのこんねえで。汽車賃にも足りなかんべえよ。」
 あっちこっちでがやがやと、となり同志で話し合った。みんな金のはなしだった。前借金は七十円以上借りてないものはほとんどないといってよかった。そしてその金もとっくの昔に一文のこらず使いはたしていた。明日からの三ケ月間のはげしい労働がまるで無償労働のような気がして、重くるしい気分に引ずりこまれるのだった。
 帳場をうしろに従えて、漁場主である旦那が出て来て座につくとみんなはしーんとした。渋好みの和服姿で、赤ら顔の、どっしりした感じの旦那を人々はまぶしそうに見あげるのであった。旦那は簡単に、遠路御苦労、といい、今年もなにぶんよろしくたのむ、と挨拶した。それから船頭、下船頭の名をあげて、役員を依頼する旨をのべた。漁夫たちはこの時から彼ら二人を親方と呼ぷことになるのだ。次に監督をかねている帳場が立上った。
「旦那にかわってちょっと注意までに言っときます。」ふところから二つに折った紙を取出し、それを見い見い、慣れ切った口調で彼は説明しはじめた。字の読めない漁夫たちが、一体何が書いてあるのか知りもしないで三文判を押した雇傭契約書の内容についての説明であった。病気又は飲酒、その他の事故で休んだときには、その休日の給金を日割として給料金のうちから引去ること。労務に服するのは日出より日没迄であるが、漁撈、製造の場合は昼夜をとわず、凡て旦那、親方の命に従い何時にても労務に服すること。鰊乗網中は風浪の危険を犯し、昼夜の区別なく最大労務に服すべきこと。労務期間中、死亡し又は負傷して将来労働に堪えざるときは、慰藉料として漁場主より金一封を支給すること。その他等々。
 漁夫たちはだまってきいていた。みんな、そんなことはどうでもいい、と投げ出しているふうに見えた。風浪の危険を犯し、昼夜の区別なく、云々、と声高くよみあげられたときに、ほーっ、えれえこったな、と突然大きな声を出したものがただひとりあった。みんなはびっくりしてその男の方をふりかえってみた。が、話が終りに近づくに従って彼らはしきりに襖のほうを気にし出した。もう酒が出そうなもんだ、とおもうのである。
「わかったな?」
 と帳場はみんなの顔をずーっと見まわしながら言って、
「では、どうぞ。」と、旦那の前に小腰をかがめた。旦那は立上ってうやうやしく神前に額ずき、ぱんぱんと拍手《かしわで》をうって大漁の祈願をこめた。漁夫たちもそれにならった。
 待ちかねていた酒はやがて出るには出たが、一人あたり冷酒一合五勺にも満たなかった。それに心の底であてにしていた女が出て給仕をしないことがもの足らなかった。縁《ふち》の厚い大きな湯呑一杯で尽きてしまう冷酒を、ちょびりちょびりと舌の先でなめずりながら、むっとした顔を一層不満そうにふくらせて、互いに何か言いたげに目と目を合した。旦那の姿が消えると同時に、その不満ががやがやと騒々しい言葉になって吐き出された。「俺ア、ここの鰊場アはじめてよ。けちんぼうだのう。もう二度と来るこってねえだ。」とひとりが言った。「余市のな、〈サ漁場な、あすこへ行って見れで。着いた時と網おろしにゃ、なんぼでも呑ませっぞ。腰の抜けるぐれえ、呑ませっぞ。」と他の一人が言った。「この酒こ、水まぜてねえだか。」誰かがそういうとどっと笑い声が起った。監督と二人の親方に聞こえよがしに彼らは言うのだった。
 祝宴(?)がおわるとみんなは立上った。と、すぐそばにいた若い男が、源吉の横へずーっとよりそって来て、
「おい、行ぐべよ、な。」といって、にやにやと笑った。
「どこさよ。」
「どこさって……。わかっていべえに。おみきの匂いこかんだばしで、どうしてこれから去《い》んで寝られっけに。行ぐべな。」
「行ぐ
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