おればこそ、重い雪靴《つまご》の足を引ずって教えられた道を大丸の事務所の方へあるきながら、源吉の心は暗い不安につつまれていた。もう遅い、と、もしもここでことわられたらどうしようという不安だった。――親子五人の口をつなぐ飯米の最後の二俵を、親爺の留守のあいだに橇で町へ運び出し、金に代え、それを博奕のもとでに使い果してしまったのはつい一週間まえのことだ。じゃがいも、唐もろこし、麦、稗、大豆の類を主食にし、その間にわずかに天井粥をすすって米の味をしのんでいる彼らにとって、その二俵はどうしても夏まで食いつながねばならぬ食料だった。その大切な命の綱を金に代えたのも、だが源吉にいわせれば考えに考えた末であった。その金を何倍にもし帰りの橇には何俵もの米を積んで帰る心算でいたのである。そうして彼がそんな考えを起すようになったというのも、もとをただせば小作料と税金の滞納と借金とにその原因があったのである。それらに責め立てられる苦しさから、なんとかして脱れ出ようとするあがきのはてがそういうことになったのだ。――二俵の米に執着し切った彼の頭はしかし、車座になって勝負を争ったその最初から乱れていた。骸子《さい》ころを睨んでいる彼の目は血走り、息はせわしくはずんでいた。焦立てば焦立つほど、だがいい目は出ず、ついには骸子そのものに一つの意志があって、源吉の上にばかり意地わるく働きかけてくるような気さえするのだった。最後の一勝負が終ったとき、彼は荒々しく叫んで立上り、口ぎたなく人々を罵り、そのまま外へとび出してしまった。暗夜の吹雪のなかを彼はあてもなく彷徨した。そしてそれっきり家へは帰らなかった。――
 街道をつき当ってそこを左へまがると、海はすぐ目の前だった。
 小樽湾をかかえ込む積丹岬の突端が、とおく春の日ざしのなかにかすんで見えた。日本海の上を渡ってくる潮風は大きなうねりをうって吹き抜け、積丹岳につづく連山につきあたってごーっと鳴った。源吉は荒い潮風に吹きさらされて立ち、長い間忘れていた磯の香を胸をひろげて心ゆくまで吸った。浜べは波打際の近くまで雪がなだらかな傾斜を見せて積ってい、鰊場の除雪作業がまだ始まっていないことを示していた。それは彼にかなりの安心をあたえた。
 大丸の事務所はすぐにわかった。白壁の土蔵に隣り合った二階建で、低い家並みからぽつんと切りはなされて立っていた。源吉はその前まで行って立ちどまると、ちんと音をさせて手洟をかんだ。それから腰の手ぬぐいを取って前をはらい、戸口をあけて土間へはいって行った。案内を乞うと、出て来たのは漁場の帳場であろう、黒羅紗の厚子《あつし》を着た四十前後の男であった。くどくどと述べ立てる源吉のいうことをだまってきいていたが、その言葉の切れるのを待って、
「鰊場かせぎしたこたアあんのか?」
 と訊いた。源吉は、ある、と答えた。それは嘘だった。渡道前、秋田の半農半漁の家に少年時代を過した彼は、浜の仕事はなんだっておんなじこととたかをくくっていたのだ。男はうさんくさそうにじろじろみていたが、
「どこでよ。」
「余市の〈サの鰊場。」と聞きおぼえで出たらめを言った。
「保証人はあるべな。」
 そこで源吉はまた、当惑をおしかくしながらいろいろと作りあげた事情を述べたてなければならなかった。保証人の判をおした引受書を持ってきたのだが、途中でおとした。などと見えすいた嘘を言った。押し問答のあげく、保証人へはすぐ手紙を出す、ということにして、結局雇ってもらうことになった。漁夫たちが全部出揃い仕事がはじまるまでのあと一週間を、事務所に泊めてもらうことにした。毎年、青森から半分、道内から半分、「鰊殺しの神様」が募集される。しかし、いよいよ、監督に引率されて漁場に向って出発する迄には、逃亡者や、病気で来られなくなるものが二人や三人は必ずあった。従ってそれらの補充を見ておくことが漁場としては必要であったのである。

          二

 灰色の雪雲がまた積丹岳の上の空をおおいはじめた。斜に一直線に降ってくる雪が、水面近くなってからはげしい風に吹きとばされて暗い海のなかに乱れとんだ。溶けかかった街路の雪はかたく凍てついて足の下できしきしと鳴った。冬がまたもどったかとおもわれた。――が、やがてふたたび春の近さをおもわせるような日がかえって来た。そしてどんよりとしたうすぐもりの、しかし気温の高い日がずっとつづいた。
 鰊ぐもりだ。
 北から西にかわった潮風は湿気をふくんで生温かかった。さむざむとした暗い海のいろにも緑の明るい色がさして来た。――北海道の西海岸は対馬海流の流域にあたる。津軽海峡の西方の沖合を走り、積丹半島をすぎ宗谷海峡にはいる対馬海流は、三月四月の間、漸く膨脹し来って春の気運のさきがけをする。気温はあがり、水温も五度―七
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