鰊漁場
島木健作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)雪靴《つまご》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)四俵[#底本は「俵」を「依」と誤植]
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一
赤い脚絆がずり下り、右足の雪靴《つまご》の紐が切れかかっているのをなおそうともしないで、源吉はのろのろとあるいて行った。やっと目的地についたという安心も手伝って、T町の入口にさしかかった頃には、飢えと疲れとで彼はそのままそこの雪の上にぶったおれそうだった。角の駄菓子屋で塩あんの大福を五銭だけ買い、それを食いながら、街路の上にようやく人通りの増して来た町のなかへ彼は這入って行った。
長い道のりのあいだ、行手にあたって絶えず見えかくれしていた積丹《しゃこたん》岳は、山裾までその姿をあらわしてすぐ目の前に突っ立っていた。三月に入ると急に気温が高まり、街路の雪が足に重たくべたつくような日がもう三四日つづいていた。見あげると積丹岳の上に重々しくかぶさっていた雪雲はいつか少しずつ割れて行き、その隙間からは晴々とした青い空がのぞかれるのであった。ときどき思い出したように雪がちぎれとんだ。空は晴れていながら、どうかして日の光がうっすらとかげると、どこからともなく雪がおちてくるのである。手にとってみるとしっとりとしたしめりを含んでい、掌の上ですぐにも溶けてしまうような淡雪だった。そこにも春の近さが感じられた。――街道を行きかう馬橇引や、買物に出て来たらしい百姓たちはいくどかまぶしそうに空を仰いだ。源吉はうなだれていた首をあげると、太い息を空に向って吐いた。
家並みがだんだんこみあって来た。長い間の冬眠から今さめようとしている町のけはいがその家並みのうしろにじいっとひそんでいた。町全体がかもし出す雑然としたものおとが、高くはないがどこか明るいひびきをもって、さかんな活動の一歩手前にある人間の動きを示していた。
町の中央、往来に面して、居酒屋、雑貨屋、鍛冶屋などがならんでいるところへ源吉は出たのである。雪がつもって道路はずっと高くなっており、屋根は重々しく雪をかついでいるので、それらの家並みは半ば地の底にめりこんででもいるかのように見えた。賑やかな歓声がそのなかの一軒から引っきりなしにもれてくる。――そこまで来て立ちどまりちょっと躊躇したかに見えたが、彼はやがて近づいて行ってその家のガラス戸をあけた。「さけ」「めし」と半紙に書いて貼りつけてあるそのガラス戸は雪の重みでひどくゆがみ、ぎしぎしと軋んだ。
ちかちかと刺すような銀いろの雪の輝きに麻痺した目は、一瞬土間の暗さにたじろいだ。が、すぐに慣れた。じっと目を据えて見ると、土の上にじかにおかれた細長い飯台に向いあって、漁夫、馬橇引、百姓などとりまぜて七八人が腰をおろしていた。
「ちょっとお尋ねしやす。」
源吉は敷居の外につっ立ったまま、にこりともせずまるで怒ってでもいるかのような調子で言った。「大丸たらいう漁場の事務所はどこかね?」
人々はもうだいぶ酔っているらしかった。突然の闖入者に彼らは話をやめ、互いに顔を見合し、それから源吉の風体をさぐるようにじろじろと見た。
「あんさん、鰊場稼ぎなさるのかね?」
源吉の問にはすぐには答えないで、問いかえしたのは、四十余りの屈強な漁夫であった。
「今っから旦那と契約すんのかね?」
「ああ、」
「そりや、遅かろうて、みんなもう、去年のうちにすんでいるべものな。」
同意をもとめるかのように一座の人々の顔をずーっと見まわし、それから又源吉の方へ向きなおって、
「まア、行って見べし、大丸の事務所はな、この前の道をつきあたったら左さ二町ばかし行ぐんだ、浜さ出る途中さ白い土蔵があっから、その隣りが事務所よ。」
とおしえた。
源吉は礼もいわず、むっつりとしたままもとの道へかえって来た。「そりゃ遅かろう」だって! そんなこたア俺だって知ってらア、糞でも喰らえ、と彼は腹のなかで叫んだ。自分ながらわけのわからない、じりじりとした怒りが荒々しく彼の身裡をかけ巡った。誰に向けられるともないその腹立たしさが、じつはなかば棄鉢になっている自分自身に向けられているということを彼自身は知る由もなかった。
鰊漁場の漁夫の雇傭契約が、前年内に取りきめられる例であるということは、人におしえられるまでもなく源吉も知っていた。三月から、五六月まで、農閑期を利用して鰊場稼ぎをする百姓たちにとっては、その際の前借金が、年末金融の唯一最大のものであった。前年の十一月、十二月中に彼らは給料の前借をして出稼を契約し、その金で辛うじて越年し、――翌年の春、実際に働いて帰るときに受けとる金というものは、帰郷の旅費にも足らぬものが多いのだった。その間の事情をよく知って
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