かれ早かれ彼奴の手に渡るだろう。他の場合にはもう有利とはいえない鰊場も、海産物商である大山にはなお充分な利潤をもたらしてくれるのだ。彼奴はしかし決して自分で経営することはしないだろう。それかといって漁業権を他人に譲り渡すこともすまい。豊漁地であることに惚れこんでひっかかってくる漁業家に高い金で賃貸するのだ。同時に製品は思い切り安い値段で引きとり、――骨までしゃぶったあげくいい潮時を見て彼をそこからおっぽり出し、そこで彼奴はふたたび新しい「かも」のひっかかってくるのを待つだろう……。
「畜生!」
 大丸はこんどは声に出してどなった。そしてあらゆる憎悪のこもった瞳を、何の策もなくぼんやり主人の命を待っている目の前の帳場に向って注いだ。
「汝《われ》、いいようにすべし。汝《われ》仕でかしたこたア、汝《われ》の手で仕末すべし。だが金アびた一文でも出すことはなんねえから――間抜けた面《つら》アいつまでもつん出していたとてラチはあくめえぞ。」
 声をはげましてののしると、漁場主は席を立って足音あらく更に奥まった部屋に引っこんでしまったのである。

 そして争議は結局どうなったか?
 事件はほとんど急転直下の勢でまたたく間にケリがついてしまった。漁夫たちの大勝利に終ったのである。旦那はどうしても逢おうとはせず、帳場を仲に介しての交渉になったが、結局五十円と吹っかけた九一金を四十円まで譲歩することにしてその翌々日の晩にはもうその現金を漁夫たちは握っていた。何が一体そうした簡単すぎるほどに見える大勝利の原因であったのか? 漁舎には前日水揚した生鰊が山積されていた。今、漁夫に仕事を休まれては見す見すそれを腐らして棄ててしまわねばならない。その方は出面《でめん》を増してなんとか処理するとしても、今はまだやっと中鰊がはじまったばかりのところだ。もめている間にもなお何回かくき[#「くき」に傍点]る鰊を抛棄してしまうことは、空しく宝の山を逃がすことだった。今年は例年にも増して鰊の※[#「※」は「さんずい+回」、第3水準1−86−65、127−3]游が多く豊漁であっただけに、なおのことそれが惜しまれた。さすがの旦那も折れないわけにはいかなかったのである。
 争議が終った日、山本は源吉をふりかえって見て、「どうだ、」といった。
「いつか言ったべ。貧乏人はみんなして固まるほかに手はねえってことを。それはここんとこを言うんだ。」それから彼はひとりごとのようにつぶやくのであった。「大丸の親爺め、どうせ今年きりでこの鰊場投げ出さずばなんめえものを、わずかばしのものケチケチしやがって思いきりのわりい奴だてば。」
 源吉はその言葉をききとがめた。
「投げ出すって?大丸、もうかってるんでねえのか。」
 それには答えないでかえって山本の方から尋ねた。
「おめえ、沼田村だって言ったな。大山って地主知ってるべ。」
「ああ俺んとこの隣村の地所ア、まるっきり大山のもんだ。」
「この鰊場ア、あの大山のものになるべってことよ。」
「ええ?」
「おめえ、鰊場の仕込にゃア、いったいどのくれえの金かかるか知ってっか。」
 そこで山本は源吉に詳しい説明をしてきかせた。彼は大丸と大山との関係をつぶさに知っていたのである。而して彼の説明によれば、この小樽切っての海産問屋、大丸の債権者大山は、同時に又後志地方の大地主でもあったのである。
「だからよ。」と山本はいった。「大きい奴はみんなそうしてどんどん太って行ぐんだ、世のなかの仕組みがちゃんとそういうふうにできているんだ。」
「この話だけでもよっくわかるべ。」と彼はまたつづけて言った。「世の中のこたア、ちょっと見るとバラバラのように見えることも、みんなたがいにつながりを持っているんだ。俺たちア大丸のおやじに搾られてるばかしでなく、大山のおやじにも搾られてるんだど。つまり二重にしぼられてるんだ。そのうえ、もしもおめえが、村で大山の田圃を小作しているとでもして見ねえか。三重にも四重にも搾られてることになろうが。」
 源吉は、なるほど、と思った。聞いているうちに今まで目を覆うていた鱗がぽろりと落ちて、目の前が急に明るくなって来たような気がした。今まで自分が住んでいた狭い世界から、急に広々とした世界に躍り出したような気がしてきた。それにしてもこいつはなんとよくものを知っている奴だろう。今までこうした事実をこういうふうに俺に話してくれた奴は村には一人だってありはしない……。
 ふとそのとき源吉は、争議のそもそもの最初から胸に持っていた一つの疑問を山本に訊いてみる気になった。
「ちょっと訊きてえことがあるんだが。」
「なんだ?」
「どうしてこんだァ九一金と一緒に契約書の問題ば漁場主《おやじ》に持ち出さなかっただかね?」
「えれえぞ!」と山本は突然大きな声で言って
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