った。腮別《あごわか》れの時にはじめてそれと知れるぶんには、なんと奴らが騒ごうと平気だ。しかし、今騒がれては……。帳場はじっと唇を噛んでだまる外はなかった。
「それで奴らアなんだっていうんだ!」
「へえ、」
「ヘえじゃねえ。はきはきしろい。」
「一人頭、五十円の九一が出なけりゃ仕事をしねえといっとりますので……。」
「なんだと!」
 この時表玄関には、さっき旦那への面会を願って拒絶された山本ら六名の漁夫の代表が頑ばっていた。旦那がなんとしても逢おうとはいわなかったとき、こんなことにはじめての彼らのなかには、途方にくれていち早くくじけた顔つきを見せるものがいた。それを叱咤[#底本は「咤」を「口+它」と誤植]したのは山本だった。
「なんだおめえたち! そんなことで戦争に勝てっかい! 棚からぼた餅をとるんとわけがちがうぞ。逢うというまでへたりこむんだ!」
 そこで彼らのうちの三人はべとべとの仕事着のままで上り框に腰をかけ、他の三人はそこの土間にべったりと尻をつけてしまったのである。
 目の前に小さくなってかしこまっている帳場が、自分の一喝ごとに小さくちぢこまればちぢこまるほど、彼の姿がどうにも我慢のできない間の抜けたものに見えて来て、漁場主はじりじりと狂暴な怒りをあおり立てられるのであった。口をきわめて罵倒の言葉を浴せながら、だがその声はなぜかうつろな響を立てていた。卑屈な帳場の姿にじつは自分自身の姿を認め、そのために一層はげしくかき立てられる怒りであることを漁場主自身は知る由もなかったのである。――そうしているあいだにも執念く彼の頭にこびりついてはなれないものは、毎年鰊漁のはじまる前には、必らず出かける、そして今年も一月早々雪のなかを出かけて行った小樽の町の、その町じゅうで一番の海産物問屋大山のことであった。ぎりぎりといつのまにか二進も三進もいかぬまでに自分を締めつけてしまった、逢えば愛想のいい、金にかけてはしかし糞虫のようにきたない大山の親爺のことであった。――
 この地方は北海道随一の鰊の豊漁地として知られてい、鰊場の漁業権もしたがって高価で、大丸もそのためには十万円に近い金を出していた。それとは別にそこに固定している資本は、建網、枠網、漁船、漁具、建物など、これもしめて十万円は越していた。次に毎年の仕込資金はといえば、漁夫の給料、その食費、それから鰊の製造費等、これも一万五千円はたっぷりかかった。もしも時化で網の損耗でもあればそんなことではとてもすまないのだ。そしてこの毎年の仕込資金の工面が、すべての漁場経営者にとっては頭痛のたねなのであった。――はじめ大丸はみんながするように仕込期に小樽へ出かけて行って、銀行から資金の融通をうけようとした。しかしもうその頃には、銀行の門は彼らに向ってはかたく閉されていたのである。鰊漁業などという堅実味のない、経営主の信用状態もあやふやなものに融資するほどに、銀行の金は遊んではいなかった。やむをえず大丸は、平素の取引商人である小樽切っての海産物問屋大山と契約し製品を担保にして金を融通してもらうことにしたのである。三年五年とそういう状態がつづいて行った。そしてその結果は、漁場主は資金提供者の束縛を脱することはできず、不景気の影響でただでさえ年々下落する一方である製品の価格はそのためにぐんと落され、毎年喰い込むばかりであった。百石三千円と見、平年の漁獲高五百石と見て、一万五千円、金利だけ損だが、それですめばまだいい方だった。大丸の借金はそうして積り積って行った。そして今ではもう漁場を引渡さなければならなくなっていたのである。
 畜生、と大丸は心できりきりと歯がみをした。親父の代からの漁場だ。むかしはだがこんなではなかった。いつの頃からかじりじりと目に見えないほどに落ち目になって来、今ではもう起き上れる見とおしもつかないのだ。今年はだから、じつをいえば最後の頑張りのつもりではじめたのだった。小樽へも早々に出かけ、今年はもう融通ができないというのを、大山の白鼠の帳場を待合に生捕り、一週間つきっきりで責めたあげく、資金もやっと借り出して来たのであった。水産試験場の発表には今年は鰊の※[#「※」は「さんずい+回」、第3水準1−86−65、125−13]游が非常に多いであろうとあったし、勇躍してこの漁期を迎えたのだ。それが走りがすむかすまないうちに時化で、枠網一枚台なしにしてしまうし、そんならヤン[#「ヤンに傍点]衆共を喰って埋めあわすばかりだと九一金全廃の腹をきめれば、帳場の奴がとんだどじを踏んでこんどの騒ぎになるし、何一つとしてろくなことはない……。
 大丸の目の前には、蛙を狙っている蛇のようにこの漁場を狙って舌なめずりしている大山の親爺の顔がふたたびありありと浮きあがってくるのだった。この鰊場もおそ
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