ということだった。――さきの六助や木村音吉の場合は、直接には自分自身の問題ではない、他人のことなのですぐ忘れてしまえたが、こんどの問題は一人のこらず全部のものに直接ひびく事がらだった。漁夫たちのなかには帰りの旅費すら持って来ないものがあった。そういうものはみなこの九一による賞与金をアテにしているのだった。それがもらえないとすると家へも帰れなかった。
ついに一人が思い切って、じかに船頭にぶつかって事の真偽を問いただしてみた。船頭は言を左右に濁したが、(彼ら親方は旦那から特別賞与がもらえるのだ)その時の船頭の狼狽ぶりと、当惑しきった顔つきから、人々はうわさがほんとうであると断定したのである。
漁夫たちはわきたった。仕事も手につかない様子だった。――そうした漁夫たちの動きを、だまって、考えぶかそうな目をしてじっと見ているのが、山本だった。
ある日、朝飯の時だった。(船頭、下船頭は帳場と一緒に事務所で、お膳つきで飯を食うことになっていて、ここにはいなかった)食事がおわりかけたころ、飯台の端の方に坐っていた山本が、突然立上って口を切った。
「おいみんな、ちょっとはなしがあるんだが聞いてくれ。」
みんなは箸を休めて、鼻も口も図抜けて大きいこの男のまるい顔を仰ぎみた。何を彼が言いだすか、本能的に彼らは知っているように見えた。
「みんなも聞いて知ってるとおり、ことしは九一がねえってこったが、そんなベラボーな話はねえと俺アおもう。時化で損したからって、そりゃおれたちの知ったことじゃねえからな。」と山本はいいはじめた。「それでじつはみんなに相談があるんだ。湯のなかで屁をこくようにかげでぶつぶつ不平を言ってたっていつまでもラチのあくこっちゃねえ。そんで帳場の野郎なんぞに話してみたって仕方もあんめえから、じかに旦那にぶつかってかけあって見ようじゃねえか。」
源吉は固唾を呑んで山本の顔を仰ぎ見た。虱をつぶしたり、ざれ言をいって高笑いをしたりする時の彼ではなかった。閃めく光りのようなものがその眉宇のあたりを走るのを源吉は見た。肩幅の広い頑丈な彼の上半身が銅像のように大きく見え、ぐっと上からのしかかってくるようにおもわれた。――うれしがって箸で机をたたいたり、茶碗をカチャカチャ鳴らしたりするものがあった。山本はなおもつづけた。
「今年は大漁だもんで、ひとつ一人あたま五十両ぐれえの九一金を吹っかけて見ようじゃねえか。いいか。そこでだ、かんじんなのはそのはなしのきまりがつき、俺たちが現ナマを握るまでは仕事を休むってこった。旦那に承諾だけさせていつも見てえに腮別《あごわか》れの前に金をもらう約束じゃ、その土壇場になって知らねえっていわれたってどうにもなるこってねえからな。……どうだ、みんなやるか。」
わっという喚声があがった。
「やるぞ!」
何人かが立上った。足踏みをし、「えれえぞ、大将」などというものもあった。わずか三十人ほどなのでまとまるのも早かった。やはり山本の発案で、旦那に逢って談じこむ交渉委員が世話役の名で六人えらばれた。山本はもちろんそのなかにはいった。仲間たちの歓声におくられて六人は時をうつさず旦那の家へ出かけて行った。ほかに五六人が浜べヘ向ってふっ飛んだ。鰊割きの出面《でめん》を牽制するためにである。
残った漁夫たちは大はしゃぎだった。長々と手足をのばして寝そべりながら宿舎に籠城した。「前祝いだ、菜ッ葉ばしでなく晩にゃ少しはうめえものもくわせろよ。」と炊事夫《なべ》に向って言ったりした。いち早くさわぎを聞きつけてかけつけて来た帳場は、うろうろして宿舎と旦那の家の間を行ったり来たりしていたが、やがてどこえか姿を消した。船頭はそのあいだじゅう、どっちへもつかれないといった顔つきでやはりうろうろしているばかりであった。
六
漁場主である大丸の旦那は、奥まった部屋の床の間を脊にして、畳二枚をうずめるようなひぐまの皮の敷物の上にどっかと坐っていた。血肥りにふとった真赤なまる顔の、禿げあがった額からこめかみにかけて太い癇癪筋が芋虫のようにぴくぴくと動き、火鉢にかざした手はアルコオル中毒のためとのみはいえない痙攣を見せていた。
「馬鹿野郎!」
彼はわれるような大声で大喝した。彼の目の前には畳一枚をへだてて帳場が頭をうなだれてかしこまっているのだ。
「どじ[#「どじ」に傍点]踏みやがって間抜けめ! それで漁場の監督だなんぞと大きな面《つら》アできるか。余計なことをとんでもねえ時に感づかれやがって、奴らがさわぐなアあたりめえじゃねえか。」
なんと口ぎたなくののしられても仕方がなかった。ふとした口のすべりから、今年は九一金を出すまいとのこっちの肚を漁夫たちに覚られてしまったということは、臍《ほぞ》を噛んでも及ばない不覚だ
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