ところに来たことのない帳場が、飯台にズラリとならんで飯を食っている漁夫たちのところへやって来た。
「お前たちこんどの六助のことで不平を言ってるようだが、」と彼は言った。「そんなこというなア罰あたりっていうもんだぜ。六助には全部前貸してあったんだから、こっちが大損なんだ、それを旦那は俸引になすってそのうえ特別に三十円も下すったんだ。第一お前たちの入れている契約書にゃ、労務中死亡したるときの慰謝料は金一封とあって、それはみんな旦那一人のお思召にあるこったからな。多いの少ないのって言えたこっちゃねえ。それはお前達も承知のはずだ。」
漁夫たちはだまりこんだまま飯を食っていた。腹は立ちはするものの、直接自分自身の問題でないだけに、どうでもいいとおもっているのだった。――源吉はしかしだまってはすませないものをかんじた。夜、そっと山本に耳うちして帳場をなぐっちまおうとおもうがどうだ、と言った。山本はいかにも源吉らしい考えだといって笑った。「帳場をなぐったってどうなる。お前が追い出されるまでのことよ。そして追い出されたらただではすまねえぜ。給科はふいになるし、前借した金にゃ一ケ月三分の利子つけて、元利耳をそろえて返さにゃならねえんだぜ。まアもう少し待て」彼は落つきはらってそういうのだった。
そのことがあってから十日ほど経ったある日の朝、町の駐在所の巡査が、帳場と一緒に廊下で働いているみんなのところへやってきた。
「木村音吉ってのいるか?」
それは津軽から出稼ぎに来ているまだ三十前の若い男だった。不安そうな顔つきをし、彼は二人に連れ立ってどっかへ出て行った。
それから一時間ばかりして帰ってきた木村音吉の顔は真青だった。手には一枚の紙きれを持っていた。
「どうしたんだ?」
みんなは口々にいいながら木村の周囲をとりまいた。彼はだまってその紙きれをみんなに見せた。――在郷軍人、木村音吉にたいする召集令だった。人々はだまって顔を見合せた。
木村が青くなった直接の原因を、人々はしかし彼の口からそれと説明されるまでは知ることができなかった。――雇傭契約書の第十条にはちゃんと書いてあった。「被雇本人、軍籍ニアリ、万一不時ノ召集ヲ受ケ、労務ニ服スルコト能ハザルトキハ、前借金ニ利子ヲ附シ即時本人又ハ保証人ヨリ弁償スベシ。漁場到着後ナルトキハ、日割ヲ以テ精算ノコト。」木村はたった今帳場からこの第十条をくどいほど説明されて来たのである。帰ったらすぐ保証人と相談してなんとかするからと、アテのない一時のがれを言って木村は冷汗をかいた。側にいて二人の問答をきいていた町の駐在所はなんにしても名誉なこった、名誉なこった、とくりかえしていた。その話を聞くと漁夫たちは「死にに行く奴に金を返せって法があるかい、香奠をよこせ、香奠を……」とののしり合った。――その夜、鰊くさい仕事着のまま、風呂敷包み一つを小脇にかかえて津軽をさしてとぼとぼ帰って行く、木村のしょんぼりした後姿は見ていられなかった。
其の後、漁夫の一人が、盲腸炎でたった四日間病んだきりで死んだときにも、やはりこの「契約書」がものを言った。遺族がもらった慰藉料は二十円だったというものがあり、いや十円だというものもあった。
五
走り鰊がおわり、中鰊の時期にはいった。
一つのうわさがその頃漁夫たちの間に広まって行った。「今年は九一金がない。」ということだった。このうわさは大きな衝撃を彼らにあたえずにはおかなかった。九一というのは漁場主が漁夫にあたえる賞与の制度だった。昔は、九一というのは、漁場主と漁夫との間に行われた漁獲物の分配制度で、漁獲物の水揚の都度、漁場主に九割、漁夫に一割を配当するものだった。しかし漁夫は自分たちに分配された生鰊を、漁場主のために働く時間の余暇をもって加工製造しなければならず、そういうことは事実上不可能の場合がおおく、結局は腐らしてすててしまうことになるのである。それらの事情のために、九一制度はいつか変形し、終漁の際における漁場主の漁夫にたいする賞与の方法になってしまったのである。しかしそれは契約書にも明記されず、いわば不文律で、その額のごときも漁場主の一存に任せられているのだった。一人当り二十円のこともあり、三十円のこともあった。
漁夫たちはよるとさわるとそのうわさの真偽について語りはじめた。飯を食うときや、寝てからの床のなかや、ついには仕事中にさえ各自勝手な意見をもち出して憶測した。「一体《いってえ》、誰がどっから聞いてきたんだ?」とひとりが怒ったようなこえを出して言つた。みんながいううちでいちばんもっともらしいのは、あるとき帳場がものかげで、船頭にその話をして相談をかけているのを一人が聞いたということだった。時化で損害を蒙ったから、というのがその理由だ
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