るのであった。

          四

 漁夫達は雇われるときにはみんな一様に雇傭契約書に署名して判をおしていた。その契約書の内容がどんなものであるかを、彼らはしかし一向に知らないのだった。それは美濃判紙三枚にむずかしい漢字まじりで印刷してあった。一通りよんで説明してもらったぐらいではわからないことがおおかった。判を押せといわれたから押したまでのことだった。しかしその契約書の内容というものが、決して一片の形式的な閑文字ではなくて、どんなに密接な関係において彼らの生活に直接結びついているものであるかということを、彼らはその後機会あるごとに思い知らなければならなかったのである。
 四月も半ばをすぎたある夜、漁夫たちは沖に出ていた。
 丁度鰊汲みの真最中だった。
 風にまじって霙が降ってきた。
 その日は朝から生温かい西風が吹いて気温がぐっとあがり、絶好の鰊ぐもりだった。「鰊は風下に落つ。」ということが漁夫たちの間には信じられていた。彼らは勇躍して海に出て行った。はたして日没頃から鰊は網にのって来た。
 しゅっしゅっと音を立てて霙は横なぐりに顔を打った。したたり落ちる雫をぬぐおうともせず、漁夫たちは鰊の大群と組み合っていた。
 瞬時に風は西の疾風となって吹きつけて来た。真暗闇の海の底が、遠い遠い沖の彼方からとどろとどろに鳴りひびきその音は次第に高く近くなり、大風が谷間に落つるときのような音を長くひいて過ぎて行った。親舟の腹にうちつける波の音が次第に大きくなってきた。
 時化だ。
 ここの海岸は西に面しているので、西から吹きつける疾風の時には大時化になることはわかっていた。漁夫たちはしかしすぐに引きあげるわけにはいかなかった。こういう時に一切の采配をふるう船頭の口は堅くとざされたままである。「鰊乗網中ハ風浪ノ危険ヲ犯シ、云々」の契約書の文言を彼は固く守っているのかも知れない。漁で沖合に碇泊中はたとえ時化になったからといって、すぐに上陸するということは船頭仲間の恥じとされている、という理由もあったろう。――それに今はちょうど鰊が網にのっているのだ。鰊汲舟は鰊で充たされていた。すくなくともその鰊を枠網に詰め終るまでは引きあげるわけにはいかぬ。
 ――ほんとうに大きな波は音も立てずに来た。舟のなかの身体が軽く持ち上げられたかとおもうと、すーっと山の頂上に押しあげられて行き、次の瞬間にはほとんど真逆様に奈落の底までおちよとばかり叩きつけられる。さすがの漁夫たちも目をつぶって舟底にへばりつくばかりだった。――今はもう引きあげるのほかはなかった。
 まだ半分も詰め込みのすまない枠網は親舟に繋留して浜べへ急ぐことになった。鰊汲舟にはなお三石から五石ぐらいの鰊を入れていた。漁夫たちは身軽になるために、今はやむを得ずその鰊を海中に抛棄しなければならなかった。
 霙は吹雪とかわり目もあけて居れないぐらいに吹きつけて来た。天も海も真黒に塗りつぶされた闇のなかに、カンテラの光りがかすかに明滅し、海鳴りと風の咆哮とが、その音を競い合った。
 瞬間、ふたたび小山のような大波が来た。
 ちょうど源吉の乗っている舟だった。九天の高さから真逆様に叩きつけられる刹那、思わず目をつぶった源吉は、耳元にかすかにあッという叫び声を聞いたとおもった。――大波がすぎ去り、ほっと息をついて船中の闇を見まわしたとき、彼は急にぞっとした寒さを襟元に感じた。
「おーい、」と彼は大声で叫んだ。
「おーい、」と舟のなかの仲間はすぐに答えた。
 人々は闇のなかで互いに呼び合った。しかしその声は源吉を加えて四人だった。一人足りないのだ。漁夫のうちで一番年長の、このごろ神経痛になやんでびっこをひいていた、六助という親爺だった。
 それと知った人々は、こんどは暗闇の海に向って叫びはじめた。船端から身をのり出すようにして、声を限りに叫んだ。返事はなく答えるものはただ風と波のおとだけだった。

 晴れた朝がやがておとずれたが、六助親爺の死体はついにあがらず仕舞だった。破損した網の修理やなにかでしばらく仕事を休む日がつづいた。
 六助は隣村の、やはり農閑期を利用して毎年鰊場かせぎをしていた百姓だった。遭難後二三日すると、頭一面に瘡《カサ》のできたわらし[#「わらし」に傍点]の手を引いて、嬶が泣く泣くやってきた。帳場に会ってしきりに何かくどくどと訴えているらしい姿がとおくから見られた。
 彼女が帰ったあとで、その時彼女が帳場からもらった慰藉料がたった三十円だったといううわさが、どこからともなく伝わると、漁夫たちはわきたった。
「人間一匹の価、三十円とはどうでえ。」
「つぶして売ってももっとにはなるべえ。」
 彼らはふんがいし、旦那と帳場の仕打を恨んで口々にわめきたてた。
 食事の時だった。めったにそんな
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