時言ひ出すべき言葉をも繰り返し考へてゐたのだが、さてその時の今となつては言ふべき言葉にもつまり、ひどい混亂を感じた。岡田は太田に答へて、白い齒を見せて微笑した。白い綺麗に揃つた齒並だけが昔のまゝで、それがかへつて不調和な感じを與へた。
「知つてますとも。妙な所で逢ひましたね。」穩やかに落着いた調子の聲であつた。それから彼は續けた。「ほんとうに暫くですね。僕はこゝへ來た翌日にもう君に氣がついてゐたんです。けれど遠慮してだまつてゐました。何しろ僕はこんな身體になつたのでね、君をおどろかせても惡いと思つたし……。」
太田は岡田のその言葉をきいて、さうかやつぱりさうだつたのか、岡田だつたのか、とほつとしたやうな氣持で思つた。彼自身の口からはつきりとさう名乘られるその瞬間までは、やはり何だか嘘のやうな氣がし、人間が違ふやうな氣がして、心のはるかの奧底では半信半疑でゐたのである。
「それで君はいつやられたんです。三・一五には無事だつた筈だが。」
「おなじ年の八月です。たつた半年足らず遲かつただけ。實に飽氣《あつけ》なかつたよ。」
絶えず微笑を含んで言つてゐるのだが、その調子には非常に明るいものがあつて、餘りにも昔のまゝなのにむしろ驚かされるのであつた。外貌のむごたらしい變化に比べて少しも昔に變らぬその調子は鋭く聞く者の胸を打つのである。
「病氣は……」太田はそれを言ひかけて口ごもりながら、思ひ切つて尋ねた。「身體はいつ頃からわるいんです。」
「さう、始めて皮膚に徴候が現はれたのは捕まつた年の春、しかし其時にはどうしたものか直に引つこんで了つた。その時には別に氣にもとめなかつたんです。それから控訴公判の始まつた年の夏にはもうはつきり外からでもわかるやうになつてゐてね、その頃にはもうレプロシイの診斷もついてゐたらしいのです。」
「外の運動も隨分變つたやうですね。」
岡田の言葉の一寸切れるのを待つて太田は今までの話とはまるで無關係な言葉を突然にさしはさんだ。病氣の事に餘り深くふれるのが何とはなしに恐ろしく思はれたのである。そしてこゝへ來てから偶然に耳にしたニユースのやうなものを二つ三つ話した。しかし話をしてゐるうちに、昔の岡田ではない、今日、もうさうした世界には全然復歸する望みを失つた彼に、さういふ事について、得意らしく話してゐるやうな自分自身が省みられ、彼はすぐに口をつぐんで
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