るのである。――今の岡田の場合はそんなことではない、彼にあつては萬事がもうすでに終つてゐるのだ、さういふ岡田は今日、どういふ氣持で毎日を生きてゐるのであらうか、今日自分自身が全くの癈人である事を自覺してゐる筈の彼は、どんな氣持を持ち續けてゐるであらうか、共産主義者としてのみ生き甲斐を感じ又生きて來た彼は、今日でもなほその主義に對する信奉を失つてはゐないであらうか、それとも宗教の前に屈伏してしまつたであらうか、彼は自殺を考へなかつたであらうか?
これらの測り知る事のできない疑問について知る事は、今の太田にとつてはぞくぞくするやうな戰慄感を伴つた興味であつた。――色々と思ひ惱んだあげく、太田は思ひ切つて岡田に話しかけて見る事にした。變り果てた今の彼に話しかけることは慘酷な氣持ちがしないではないが、知らぬ顏でお互ひが今後何年かこゝに一緒に生活して行く苦しさに堪へられるものではない。さう決心して彼との對面の場合の事を想像すると、血が顏からすーと引いて行くのを感じ、太田は蒼白な面持で興奮した。
7
太田は運動の時には丁度岡田の監房の窓の下を通るので、話をするとすれば運動時間を利用するのが一番いい方法なのであるが、その機會はなかなか來なかつた。擔當の老看守は太田ひとりの運動の時には別に監視するでもなく、その間植木をいぢつたり、普通病舍の方の庭に切り花を取りに行つたりして、運動時間なども嚴格な制限もなくルーズだつたが、さて、話をするほどの機會はなかなか來なかつた。しかし、普通病舍の庭に咲き誇つた秋菊の移植が始まり、丁度ある日の太田の運動時間に三四人の雜役夫が植木鉢をかゝへて來た時に、花好きな老看守はそつちの方へ行つてしまひ、遂に絶好のその機會が來たと思はれた。折よく便所へでも立つたのであらうか、ガラス窓の彼方に岡田の立姿を認めた時、太田は非常な勇氣をふるつて躊躇することなく眞直に進んで行つた。そして窓の下に立つた。
上と下で二人の視線がカツチリと出會つた時、妙に表情の硬ばるのを意識しながら、太田は強ひて笑顏を作つた。
「岡田君ですか。」太田はあらゆる感情をこめて、たゞ岡田の名をのみ呼んだ。そしてしばらくだまつた。「僕は太田です。太田二郎です。(原文三字缺)にゐた(原文二字缺)、知つてゐますか。」
毎日もう幾囘となく、始めて二人が顏を合せた時の事を想像し、その
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