は今までにかつてない恐怖の念をもつて運動中のかの男を見たのである。初めは恐る/\偸み見たが、次第に太田の眼はぢつと男の顏に釘づけになつたまゝ動かなかつた。さういはれて見れば成程この癩病患者は岡田なのだ。だが、昔毎日彼と顏をつき合して暮してゐた人間でさへも、さういはれて見て改めて見直さない限りそれと認める事はできないであらう。今、心を落着けてしみじみと見直してみると、廣い拔け上つた額と、眼と眉の迫つた感じに、わづかに昔の岡田の面影が殘つてゐるのみなのである。廣い額は、その昔は、その上に亂れかゝつてゐる長髮と相俟つて卓拔な俊秀な感じを見る人に與へたが、頭髮がうすくまばらになり、眉毛もそれとは見えがたくなつた今は、かへつて逆にひどく間のぬけた感じをさへ與へるのであつた。暗紫色に腫れあがつた顏は無氣味な光澤を持ち、片方の眼は腫れふさがつて細く小さくなつてゐた。色の褪せた囚衣の肩に、いくつにも補綴《つぎ》があててあり、大きな足が尻の切れた草履からはみ出してゐる姿が、みじめな感じを更に増してゐるのであつた。本人は常日頃と變りなく平氣でスタスタと早足に歩き、時々小走りに走つたりして、その短かい運動時間を樂しんでゐるらしいのだが、もう秋もなかばのかなり冷たい風に吹きさらされて、心持ち肩をすぼめ加減にして歩いて行くその後姿を見送つた時、あゝこれがあの岡田の變り果てた姿かと思ひ、それまでぢつと堪へながら凝視してゐたのがもう堪へがたくなつて、窓から離れると寢臺の上に横になり布團をかぶつてなほも暫くこらへてゐたが、やがてぼろ/\と涙がこぼれはじめ、太田はそのまゝ聲を呑んで泣き出して了つたのである。
數へがたい程の幾多の悲慘事が今までに階級的政治犯人の身の上に起つた。ある同志の入獄中に彼の同志であり愛する妻であつた女が子供をすてて、どつちかといへばむしろ敵の階級に屬する男と出奔し、そのためにその同志は手ひどい精神的打撃を受けて遂に沒落して行つた事實を太田はその時まざまざと憶ひ出したのであつたが、さうした苦しみも、或ひは又、親や妻や子など愛する者との獄中での死別の苦しみも――その他一切のどんな苦しみも、岡田の場合に比べては取立てて言ふがほどの事はないのである。それらのほかの凡ての場合には、「時」がやがてはその苦腦を柔げてくれる。何年か先の出獄の時を思へば望みが生じ、心はその豫想だけでも輕く躍
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