でぢつとしてゐた彼女は突然なにか大聲に叫んで立上り、幾列にもならべた長い椅子を縫ふやうにして、古賀の方へ走りよつて行つたのである。(その聲は古賀もきいて何事であらうと不安に感じてゐた。)もちろんそれは人々によつてすぐに阻まれはしたが。それから同志の二三人と一緒に外へ出、同志たちは近くのうどん屋でうどんをごちそうしたのであるが、そこへ腰をおろすと彼女ははじめてふところから手ぬぐひを取り出し目をおほひ、聲を立てずにさめざめと泣いたといふ。――古賀は同志の一人から手紙でその時の樣子を詳しく聞いたのである。
そしてその時から今日までちやうど十ヶ月になる。
佐藤辯護士に逢つてから二日後には裁判所から控訴公判の開廷日を通知して來た。――佐藤氏に約束した十日間の日はいつの間にか過ぎ去つた。十一月にはいると間もなく霜がおり、朝晩はめつきり寒くなつた。三方の石の壁から、うすい蓙一枚をしいてすわつてゐる床板から、冷が迫つて來て骨身にこたへた。その頃から古賀はこん/\とへんな空咳をし、そして少しづゝ瘠せて行つた。
ある日、彼は突然教誨師の來訪をうけた。
「控訴公判の日がきまりましたさうですな。」
扉を細目にあけ、その間からからだを半ばなかへ入れて、さぐりを入れるやうな言ひ方をするのだ。聲もさうなら目つきもさうであらうと古賀は思つた。彼が何の用を持つて訪れたかを古賀は知つてゐた。ふつと古賀はなんといふことなしに(原文十四字缺)を心に感じた。彼はうなづいたきりだまつてゐた。
「お母さんは面會にいらつしやいますか?」
古賀はなほもだまりつゞけてゐた。
「一度公判前にお逢ひになつてゆつくりお話なすつたらいかゞですか。私もいろ/\おはなししてあげませうが。」
古賀はかんたんに禮の言葉を述べたきりでその後は一言も口をきかなかつた。目の見えない彼は、手持ぶさたな相手の態度にも無關心をよそほひ平氣でをれるのであつた。――やがて教誨師は出て行つた。
翌日は呼び出されて典獄に逢つた。
典獄の態度は教誨師のそれよりもずつとあらはであつた。すべてははつきりとしてゐた。彼はまづ古賀の「心境」をたづね、母の近況をたづねた。それから古賀に向つて一つの勸告をした。そしてさすがにこれはやゝ遠まはしにではあつたが、その勸告を入れるならば、保釋出所は容易であらうといふことをほのめかして言ふのであつた。典獄は丁寧な言葉でそれをいひ、温顏(さう古賀は想像した)をもつて終始した。古賀は言葉すくなに答へ、もう少し考へて見たいこともあるからと言つて歸つて來たのである。歸りの廊下で編笠の隙間からのぞかれる彼の顏は、心持蒼白に引きしまつて見えたが、その口もとはかすかにゆがみ、冷やかな笑ひに近いものさへそこにはうかんでゐた。……
――古賀はこの數日來の興奮が次第におさまつて行くのを感じてゐた。同時に心の奧に殘つてゐた曖昧なものゝの最後の一片が、過去の囘想に浸つてゐるうちにいつか自然と除かれてしまつたことに氣づいてゐた。――一審の公判を終へてから今日まで十ヶ月、その間彼は幾度も弱り又元氣を取戻した。元氣をとりもどし、あたゝかい血潮の流れを身裡に感じ、萎縮し切つてゐた胸がまるくふくらんでくる思ひがすると古賀は記憶のなかから幾つかの歌をとり出しては口ずさんだりするのであつた。それらの歌はみんな彼の過去の鬪爭の生活と結びついてゐた。若々しく興奮し、心持ふるへる押し殺したこゑで暗闇のなかで古賀はそれをうたふのだ。だがやがて彼はまたじり/\と弱つてゆき、かぢかんだ心になるのであつた。――あの公判のすんだ當座はわれながら不思議なぐらゐに元氣で、それまできまらないでゐた心も公判を楔機にしつかときまつたかのやうに感じさへした。しかし時が經つにつれてだん/\暗いかげが彼の上をおほひはじめ、ふたたびよるべのない空虚さに心を蝕ばまれはじめるのであつた。公判だといふので無理にも心を鼓舞し鞭撻しなければならなかつたその緊張がすぎ去つたとき、こんどは今までにない弛緩した心身を感じなければならなかつたのである。この空虚なさびしさは理窟ではどうすることもできない、心の深いところに根ざした抗しがたいものゝやうに思はれた。不幸な目にあつた當座はまだよかつた。自分で絶えずなんとかしてはね起きようと努力してゐたからである。一定の時期さうし状態がつづき、その次に來たその當時のやうな虚脱状態はどうにも仕樣がなかつた。ずる/\とほとんど不可抗的な力でニヒルな氣持にひきずられて行つた。――しかし古賀はだん/\さうした場合に處する心の持ち方をも自ら體得して行つた。さういふ時にこそ彼は「時」にたよつたのである。無理に心を反對の方向に驅り立てようとはしないで靜かにその暗さのなかに沒入して時を待つたのである。すると、やがては心の一角にほの
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